暁のヨナ | ナノ


▼ 彩雲 【ゼノ+ハクヨナ/過去】


 王都はその袖の中に、麗らかな春を迎え入れつつあった。
 半月程前、厳しい冬場をしのぐために身を寄せていた山間の人里に別れを告げ、黄龍ゼノはその身一つで都へ発った。
 常人にとっては途方もなく長きに渡る時を、彼は気儘で当て所ない流浪の旅に費やしてきた。だがここ数年余は、あたかも越冬した鳥が生まれた巣に帰ってくるかのように、意図して緋龍城のある空都へ立ち寄ることが多い。
 空の部族が王国の覇権を掌握してから、実に二百五十年有余となるだろうか。ゼノは一年越しに訪れた空都の城下町を、何とはなしに練り歩く。緋龍城に向かって延びるこの往来は、昼夜を問わず市が立ち、いつ通っても賑やかで忙しない。かつて五部族が王権を巡り争いを繰り広げた歴史を彼は目の当たりにしてきたが、こうした都の華やかさは、たとえどの部族が国の頂きに立ったとしても、さして代わり映えのしないものである。
「やあ。小僧、物見遊山かい?」
 人のよさそうな茶肆の主人が、網の上で串刺しの団子を焼きながら声を掛けてきた。香ばしい匂いに鼻をひくつかせるゼノだが、生憎持ち合わせがない。物欲しげにいい塩梅に炙られた団子を見ていると、おまけだよ、と笑いながら主人が一本差し出してきた。
「ありがと。あのね、俺は物見遊山じゃなくて、ちょっと人に会いに来たのさ」
「そうかい。なんとまあ、ちょうどいい時期に来たもんだ。明日はヨナ姫様のお誕生日だからな。久々に、お城で盛大な宴が開かれるぞ」
 団子を飲み込んで、ゼノはつと目を細める。馳せた眼差しの先に、天高らかに聳え立つ緋龍城の、雲を衝くかのような緋破風を仰いでいた。
「知ってるよ。ーー王妃様がお亡くなりになられて、国王陛下が服喪のお触れを出された。それから三年の間、宮中で宴のたぐいは一切開かれなかったんだろ」
 今年は亡妃の喪が明け、実に四年ぶりに、皇女の誕生祝いが催される。
 以前、遠目ながらゼノがその姿を目の当たりにした時、美しい母后に手を引かれたこの高華国の皇女は、まだ舌っ足らずのか弱い嬰児であった。経験上、貴賤を問わず子どもという存在はとりわけ脆弱なものと知る彼は、できることなら近くで皇女の健やかな成長を見届けたいとさえ思ったものだ。あれから四つばかり年を数えた皇女は、いったいどれほどの成長を遂げたことだろう。
 その夜は茶肆の家で一宿の恩義にあずかり、翌日、祝賀を示す緋幕が垂れ下がった緋龍城の楼門をくぐった。
 普段は堅く閉ざされた緋龍城の門戸が、万人に向けて開かれる日はそう多くはない。今のゼノのようなしがない市井の身であれば、宮殿の深窓で大切に養育されている王の愛娘にお目にかかることなど、こうした公式の機会でもなければ不可能である。三年の間、皇女ヨナの誕生祝いは控えられたが、それでもゼノは彼女の誕生日が近付くと、決まって緋龍城に立ち寄った。会うことはできなくとも、彼女の成長ぶりに思いを馳せたものだ。
「皇女様に、是非とも贈り物をお届けしたいのだが」
「ヨナ姫はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「直接お会いして、祝いの言葉をお伝えしたいのです」
 警護役の衛兵や配膳役の女官が、参内した人々につかまってはあれこれ聞かれて、手を焼いている。どうやら祝いの花形は、まだ姿を見せていないようだ。
 ゼノは城の中をそぞろ歩いた。宴の喧騒から離れるにつれ、人の姿がまばらになっていく。朱塗りの回廊にさしかかると、向かいから駆けてきた女官が一人慌ただしく通り過ぎていったきり、渡りきった先に広がる庭園にはまるで人気がなかった。
 いや、正確にはそこに誰かがいた。息を潜めてひっそりと。その人の気配を辿ることは、彼にとってそう難しくはない。四龍の兄弟と同様に、あるいはより一層強く、色濃く感じられるその存在。
「ーー見つけた」
 まるでかくれんぼに勝った子どものように、黄龍の名を持つ青年は、この上なく嬉しそうな顔をした。遠目に見られるだけでも十分だと思っていたはずが、いざ目の当たりにするとつい欲目に駆られてしまう。少しだけ、あと少し近づいてみるだけだ、と自分に言い聞かせて、笠のつばを下げ、緑なす庭園に足を踏み入れた。
 池の側で柳が風にそよいでおり、赤い髪の少女が蹲っている。美しい晴れ着で装っているが、愛らしいかんばせに浮かぶ表情は、喜色とはまるでかけ離れている。どうやら機嫌を損ねて泣きべそをかいているようだ。傍らには黒髪の腕白そうな少年が寄り添い、ちらちらと様子を窺っている。おそらく幼い皇女の遊び相手に召されたのだろう。
 ーーああ、やっぱり大きくなったなあ。
 いとけない孫娘を愛でる老爺の心持ちとは、このようなものだろうか。最後に目にした時よりも、明らかな成長が見てとれるその姿に、ゼノは人知れず胸を熱くした。早いもので、暁の方角に一際輝かしい星が昇ったあの日から、確かな時が経ったのだ。彼にはつい昨日のことのように思い起こされるというのに。
 ところで、尊き龍の申し子は、このような慶ばしい日に、何を悲しんでおられるのだろう?
「ですからスウォンは、風邪をこじらせてしまって、どうしても来れないそうですよ。このまま、ここで待ってても……」
 少年が痛ましそうに目を伏せる。凪いだ池を見つめる皇女の大きな瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
「いい加減、泣きやんでくれよ、お姫様」
「だって、だってーー」
「あんたが泣いたら、俺、ほんとにどうしたらいいかわかんないんだよ……」
 もどかしげに頭を掻く少年。だがゼノが近付いてきたことに気づくと、表情が一変した。俊敏な動作で立ち上がり、皇女の前に立ちはだかる。
「誰だ」
 険しい威嚇の眼差し。ゼノは感心してまじまじと見つめ返す。年端のゆかぬ子どもながら、その目は幼さを微塵も感じさせず、少年が既に武芸の手練れであろうことを物語っていた。
「おいおい、おっかない顔するなよ、ボウズ。俺はただの祝い客なんだからさ」
 ゼノは屈んで、その頭をくしゃくしゃに撫でてやる。悪意の欠片もない彼の笑顔に、少年はすっかり敵意を削がれたようだ。拳法の構えを崩して、ちらりと背後を振り返る。まだ皇女はしゃくりあげていた。先程の威勢の良さはどこへやら、少年はまたも心もとない顔になる。
「ねえ。そっちのお嬢さんは、どうして泣いてるの?」
 ゼノに話し掛けられたことに気付くと、皇女は膝から顔を上げた。思えば彼女と言葉を交わすことはこれが初めてだった。こうして真正面から向き合うことも。泣き濡れた瞳は透き通る玉のようで、覗けば心の奥底まで見通せそうな気さえする。
「……悲しいから、泣いているの」
「悲しい?どうして?」
「だって、せっかくのお祝いなのに、スウォンは来ないし、母上もいらっしゃらないのだもの」
 ゼノは皇女の手を取り、隣の少年の手へといざなって、二つの手を繋がせた。突飛な振る舞いに皇女は首を傾げ、少年は落ち着かなそうにそわそわしている。こうして並べてみると、つがいの人形のように可愛らしいではないか。微笑ましく思いながら、ふと、かつて神の声を聞いたこともあった彼は、予言めいたことを口にした。
「大丈夫だよ。どんなに寂しくなっても、お嬢さんは絶対に独りぼっちにはならない。このボウズが、ずっと傍にいてくれるから」
 皇女がきょとんとした目をする。隣の少年は気恥ずかしいらしく、ほのかに頬を染めている。だが否定もしなければ、皇女の手を離そうともしない。しっかりと繋いだ手をとどめている。よほど皇女に入れ込んでいるらしい。
 ゼノは予感していた。いずれ皇女にとって、おそらくこの風雲児が、唯一無二の存在となるだろうことを。
「ハク、お前は私の傍にいてくれるの?」
「さあな。知らね」
「いじわる!ねえ、だったら、たまにはわがままを聞いてくれる?」
「ーーお姫様がわがままを言わない時なんて、あったか?」
 斜にかぶった笠の陰に顔を隠し、ゼノはそっと庭園を後にした。背後から聞こえてくるやりとりに、終始口元に優しい微笑みを留めたまま。
 緋龍城を出て、空をあおぐ。にわかに四龍の気配を感じた。彗星のように空に線を引いたかと思えば、跡形もなく彼方へ去っていく。あれは天翔る龍、緑龍だ。里を出てこのかた、自由奔放に跳び回っているらしい。
 白龍と青龍はどうしているだろうか。彼らの気配はまるで動きがない。閉ざされた里で代々定住してきたのだ。生き神として崇められる白龍にも彼なりの苦労があり、化け物と疎外される青龍は孤独な生活を送っていることだろう。
「でも、再会の時まで、そう長くはかからないはずさ」
 緑龍の気配が遠ざかっていく。今回の四龍にはとりわけ情が移ってしまった。青く澄んだ空をしばし見守った後、黄龍は再びその足で歩き出した。

 皇女は暁の星の下に生まれた。天地神明が彼女に与えた定めは、決して生易しいものではないだろう。激動に満ちた人生が待っているはずだ。得るが多いか、あるいは失うが多いかーー。
 しばらく歩いて振り返ると、緋龍城に彩雲がかかっているのが見えた。遥かな時を生きてきた黄龍でさえ、これほど神々しい空は見たことがない。あの少女はよほど天に愛されているらしい。愛されるあまり、常人には途方もない生を背負わされるのだろう。
 宝物の龍紋を握り締め、彼は目を閉じる。あどけない皇女の瞳が蘇り、星のように輝き出す。自然と笑みがこぼれた。
「お嬢さん。直接言いそびれちゃったけど、俺はいつも思ってるよ。ーー生まれてきてくれて、本当にありがとう、ってね」
 長生きも案外捨てたものじゃない。いつか離した手をもう一度、繋ぐことさえできるのだから。






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