暁のヨナ | ナノ


▼ 楽園 【キジャ+ヨナ】


 いずこからかせせらぎが聴こえてくる。どうやら川が近いようだ。昨日の狩りで汚れた外套を洗濯するのにちょうどよいと、キジャは上機嫌で緑なす森を進んでいく。
 ゆうべの夕餉はなかなか充実していた。ジェハが狩った雉で鍋をし、キジャとハクが数を競って釣った岩魚を炙り焼きや煮付けにした。大事な姫様には精のつくものを召し上がっていただかなくてはならない。四龍を統べる高貴なる姫君の御膳がいつも味気のない雑草やらやたら水気の多い粥ばかりでは、あまりにもお粗末すぎて気の毒でならない。
 キジャの世界はヨナ姫を軸としてまわっている。姫様が笑顔であれば、彼の心は晴れ晴れと澄み渡る。少しでも悲しそうであれば、しとどに雨が降り鬱ぎ込んでしまいそうになる。姫様のいない場所は、色のない白銀の雪景色にも似てつまらない。視界のほんの隅にでもその存在を見いだすことができれば、たちまち世界は鮮やかに色づいていく。
「姫様に可憐な花の一輪も贈って差し上げたいものだ。美しいあの方の御髪によく映えるであろう」
 キジャは花簪を挿して嫣然と笑う姫君の姿を想像し、その愛くるしさにうっとりと酔いしれる。歩揺や櫛のような値の張る装身具を手に入れることはできないが、花盛りの娘御がその身を飾ることに何の興味関心も抱かぬはずがない。とはいえ益荒男【ますらお】ぞろいの旅路は険しく、紅一点の姫様におかれてはさぞ多くを我慢なさっていることであろう。
「私が気を配って差し上げねばならぬ。姫様がつつがなくお過ごしになれるよう」
 一人使命感に駆られつつ、茂みをかき分けて歩みを進める。涼しげな水の音がいっそう近づいてきた。水辺には姫様に捧げることのできる花が咲いているだろうかと期待しながら、木々を抜ける。
 視界が晴れ、そこには小川が流れていた。穏やかなせせらぎが心を落ち着かせる。水は清らかに透き通り、浅瀬の川底を泳ぐ魚の姿やゆったりと藻の揺れる様子が窺えた。
 だがキジャが殊更目を奪われたのは、その川を渡った先に広がる景色だった。
 辺り一面が花畑だった。先程まで降っていた天気雨の名残か、芳醇な花の香りにしっとりと雨の匂いが混じっていた。霞にけぶる空には七色の虹がかかっており、花畑に座る一人の少女がそれを見上げていた。まるで小川を境にして、別天地を見ているかのような錯覚に陥る。
「あら、──キジャ?」
 気配に気づいて振り返った姫君は、色鮮やかな花冠を頭に戴いていた。やはり美しい御髪にははなやかな花がとてもよく映える。冠はご自分で編まれたのだろうか、とキジャは夢見るような眼差しをして誰にともなく問いかける。
「どうしてそんなところにいるの?──こっちへいらっしゃい。一緒に休みましょうよ」
 姫様の声は匙からとろける蜂蜜のように甘く、キジャの心をとかした。──いや、彼の耳がそう錯覚しているだけなのか。
「花冠、キジャの分も作ってあげる。お揃いにしましょう」
 そう言って、ヨナ姫は花を摘みはじめた。裙を花篭のようにして集めていく。姫君の花を手折る仕草さえも美しく、彼はつい見とれてしまう。気に入った一輪を鼻に近づけて、匂いを楽しむさまなどを見ていると、姫君に愛でられる花に嫉妬してしまいそうにさえなる。
 ここは楽園だろうか。私はとうとう、外界からは閉ざされた霊界へ足を踏み入れてしまったのだろうか──。
 白龍はおそるおそる小川を越え、向こう側に渡る。ヨナ姫は摘んだ花を編む手をとめて、おいで、と彼に手招きする。その笑顔のなんと心休まることか。
 龍の手を引かれて、キジャは躊躇うそぶりをみせた。
「左手のほうがよろしいかと。この手が姫様の御手を傷つけてしまわないかと、気が気ではありません」
 そんなことを気にしなくてもいいのよ、とヨナ姫は快活に笑う。
「キジャの手はとても優しいわ。人を慈しむことを知っている手。どっちの手も、私は好きよ」
「そ、そのようなお言葉、私にはあまりにもったいなく──」
 姫君が龍の手を愛おしむように、自分の頬にすり寄せる。化け物の手と忌避する人間がほとんどの中、この姫君は稀有な存在のようだ。
「私のような非力な人間を守ってくれる、かけがえのない手よ。──もし白龍に会えるのなら、私はお礼を言いたい」
 キジャの頬は暁の空の色に染まっている。
 この手を誰に忌み嫌われようが、一向に構わぬ。主たるこの御方にさえ、見限られぬのであれば。
「ではその暁には、私も姫様にならい、白龍に礼を尽くしたいと思います。──その血によって、こうして、姫様と私の縁が生まれたのですから」






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