暁のヨナ | ナノ


▼ 一別如雨【ジェハ+ヨナ】

(187話if / 10周年企画リクエスト 匿名様「ジェハヨナ」)


 深窓を覆い隠す窓掛けは、はらはらと揺れていた。
 折柄の雨風になぶられているせいではない。それをかたくなに握りしめる人の手が震えているからだ。──その覆いの陰に、独り隠れて泣いている少女がいるからだ。
 天翔ける龍の脚は、あの寝所に至る鎖で足首をかたく縛められたように、とうに飛翔の力を失っていた。名も知らぬ殿閣の屋根から、緑龍はじっと雨にけぶる華宮殿の一部屋を見つめていた。あの檻のような窓の奥に、か細く震える人影が見えるような気がする。すべての苦悩をたった独りで抱え、抱えきれぬその重圧に丸く背を縮めているその姿が。
 千里を見通す青龍の眼があったなら、あの少女の表情をうかがい知ることもたやすいだろう。だが悲しいかな、彼はその力を持ちえない。龍の眼の代わりに龍の脚を与えられた。そしてその脚は今、これほどまでに無力だ。ただあの少女の涙にとらわれている。彼女の嘆きをこうして身にも心にも浴びながら、いまだその望み通りに立ち去ることも、その思いに背いて再びあの窓辺へ馳せ参じることもできずにいる。
 滝壺で斎戒する神官のように、雨に打たれたまま緑龍は微動だにせずにいた。あの窓掛けが揺れ動くたび、彼の心もまた揺さぶられていた。彼女の涙を拭いてやることを許された男は、彼ではない。その事実はとうに受け入れたはずだ。ならば大人しく四龍のもとへ帰るべきなのだろうが、すでに彼の心身はその身にまとった文官衣装の袖のように、滴るほど彼女の涙を吸ってしまっている。これほどまでに彼女の悲しみに浸されながら、黙って去ることなど到底できそうにもない。今去ってしまえば、二度と会えなくなるような気さえする。
 ──そうして緑龍は、迷いを振り切るように今一度、雨天を翔けた。
 欄干に降り立つ影に、部屋の主が勘付くことはなかった。彼女は広い寝床に背を丸め、声を押し殺して泣いていたのだった。緑龍は膝をつき、寝具に隠されたその顔をそっと差し覗きながら、
「──来られては困る、と言われてもね」
 低くささやきかける彼の前髪から、雨の滴が冷たくしたたり落ちた。その水滴は、絹の寝具からはっと顔をのぞかせた王女の蓮よりも白い頬に、夜露のようにはじけて飛散した。
「僕だって……どうしたらいいか、わからない」
 はねのけかけた寝具ごと抱きすくめられた彼女は、さらに息をつめた。どれほど驚かせようとも、逃げまい、逃げられまいとするジェハは切実だった。
「どうして──?」
「……どうしても」
 全身濡れそぼりながらも、その声はからからに嗄れていた。
「どうしても来てほしくないと言うのなら、いっそ、僕の脚を斬り落としてくれ。二度と君のもとへ跳んでゆけないように。──そうでもしなくちゃ、きっと僕は何度拒まれてもまた君に会いに来てしまう」 
 温かな想い人の胸に縋るように、彼はうったえかける。
 ──ジェハ、と雨よりもなおひそやかな声で彼女が彼の名を呼んだ。
「大切なあなたに、そんなことできるわけがないでしょう……?」
「だったら、せめて悲しまないで」
 彼女の心臓の動く音を聴きながら、緑龍は固く目を閉じた。
「……ヨナちゃん。君が泣いているのが、僕には耐えられないんだよ」
「ジェハ」
 ヨナの手が彼の頭をそっと抱く。
「冷えているわ。ずっと、外にいたの?」
「そうだよ」
「風邪をひいてしまうわ──」
「じゃあ、温めてよ」
 彼女は膝のあたりから手繰り寄せたもう一枚の寝具を、ジェハの盆の窪まで引きあげた。絹に焚き染められた香の中に、彼女の匂いが溶け込んでいる。
「追い返さないの?」
「私も、本当は独りでいたくなかったんだもの」
「──僕は抱き枕かお人形かな?」
「ジェハっておかしなこと言うのね。確かに、今のあなたは水枕みたいに冷たいけれど」
「はは」
 いずれにせよ自分が何を捧げようと、「彼」の小指一本ほどの替えさえ利かない。
 そんなことはとうに知っている。
 自嘲めいた笑いをおさめ、ジェハはおもてを上げた。
「でも、ハクが知ったら怒るだろうな」
「どうして?」
「愛する君が、こうして他の男を抱きしめているんだもの」
「そんなことないわ。ジェハと私、家族みたいなものじゃない。温めあうのは当たり前のことよ」
 ヨナが彼の頭に頬をすり寄せている。温かな親愛の情が、脳天から爪先にまで浸透していく。足元から崩れ落ちていきそうな絶望と、天にも昇る喜びとの板挟みとなって、ジェハは身を裂かれるような息苦しささえ覚えている。
 彼女はただ、甍から流れ落ちる雨の音に耳を澄ませていた。肌身を温めあっていても、彼はその心には触れられずにいた。それは彼の耳元にはなく、近くとも遠い人のもとへ馳せられていたからだった。彼女の口から心ない拒絶の理由が語られるきざしはなかった。
「──ああ。そうか、きっとジェハが雨を呼んだのね」
「僕が? なぜそう思うの」
「だって、あなたは緑龍だもの。龍は雨を降らせるのでしょう?」
 緑龍は顔だけでその人に笑いかける。
「君こそ、緋い龍じゃないか──」
 雨はいつ止む。傘は、軒はどこにある。
 この脚でどこまで跳んでゆけばいい。





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