暁のヨナ | ナノ


▼ 雪解【スウォン+ヨナ/大将軍4】

(*「大将軍」シリーズに連なります。
一部大人の雰囲気ご注意。)


 高殿の回廊から臨む庭園には、雪が深々と降り積もっている。
 朱塗りの欄干に手を添えて眼下の景色を眺めるヨナの肩に、気遣わしげにそっと男の手が触れてきた。
「外気にあたっていては、身体が冷えてしまいますよ」
 ふわりと肩に掛けられたものは、貂の毛をあしらった斗篷である。顔だけで振り返れば、怜悧な美貌がやや困ったように形のよい眉を下げて微笑んでいた。
 この緋龍城の主にして、高華国の王である青年は、長い睫毛を伏せて彼女の額に口づけてくる。
「ヨナ。──あなたを凍えさせたくないのです」
 寒くても、もう少しここで感傷に浸っていたいのだとは言えず、ヨナは静かに幼馴染みを見つめ返した。
 あふれんばかりの愛情を湛えるその瞳。彼に恋していた頃、彼女はその愛を、喉から手が出るほど切望したものだった。積もり積もった恋心が雪解けのように跡形もなく消え去った今になって、こうした眼差しを向けられることになろうとは。運命とは実に数奇なものだと感じずにはいられない。
 過保護な王に肩を抱かれて、名残惜しく思いながらも広大な雪景色に背を向ける。屋内に入れば、女官達が楚々と歩み寄ってきて、二人の髪の毛や肩口に降りかかった雪を絹の手巾で静かに拭い取っていった。女官達に成すがままにさせている間にも、王はヨナの白磁の頬に手を添えて、その冷たさに柳眉をそっとひそめている。
「私が来なければ、ずっとああしているつもりだったのですか?」
 ヨナは答えなかった。だが、きっとそうしていただろうと思っていた。
 女官達の目も憚らず、王が溜息交じりに囁きかけてくる。
「あなたのことが気にかかって、仕方がありません。あなたが──この城に居てくれることが嬉しくて」
 嘘偽りのない、真心からの言葉だとわかっている。それでもヨナは、まるで赤の他人に向けられた告白を聞くかのように、遠い目をしてその言葉のひとつひとつを冷静に受け止めていた。
 王が目配せをし、控えていた女官達は目線を低くしたまま静々と退出していく。扉が音もなく閉められると、室内は二人きりになった。王は背もたれに双龍が描かれた琺瑯の長椅子に腰かけ、心置きなくヨナを抱き寄せて、暖を取る。
 いや、自らの体温で彼女に暖を取らせている、と言うべきか。
 厳冬の最中にあって、ヨナが過ごす暖閣はさながら常春のあたたかさを保っている。小雪のちらつく回廊に出て少しばかり外を眺めていたからといって、たちどころに体調を崩してしまうほどやわではない。だが、王城の外を旅した経験が心身を強く鍛え上げてくれたので、自分はもうかつてのようなか弱い深窓の姫君ではないのだと彼女がいくら主張しようとも、きっと国王は聞く耳を持たないだろう。
 最初に寝台を共にした夜から、彼はヨナのことをこの城の誰よりも気に掛け、手厚く守ろうとする。
 まるで、温室で大事に育てた花のように。
 あるいは、籠に入れて慈しむ小鳥のように。
「お放しください、陛下」
 ヨナは自ら王とのあいだに間を空けようとする。彼女が明確な意志を示さなければ、彼はどこまでも二人の距離を縮めようとするのだから。
 だが彼はヨナが離れようとしていることを知るや、むしろより深く彼女を胸に掻き抱いてしまう。
「いやです」
「陛下」
「あなたはまだ、こんなにも冷たい。……離れたくありません」
 懐かしい匂いと温もりに包まれながら、ヨナは静かに目を閉じた。駄々をこねる子供にも似た三つ年上の幼馴染みを、あやすような口調で諭す。
「そろそろ政務へお戻りください、陛下」
「……いやです」
「皆が陛下を待っています。臣下に、王の威厳をお示しください」
 王はかぶりを振り、彼女の名を囁いて、その白いうなじに顔を埋めた。
「陛下」
 一貫して感情を抑制していたはずのヨナの声が、わずかな焦りを帯びる。
 その首筋にそっと口づけたのち、若き王は熱を持てあました瞳で、動揺を隠しきれない彼女の顔を上目遣いに見上げた。
「今日の政務はもう終わりました。そうでなければ、あなたのところへは来ません」
 王の言い草に、ヨナはわずかに眉根を寄せる。
「ですが、これも国王の務めではありませんか?」
「──いいえ」
 即答だった。ぶれることのない直向きな眼差しから、ヨナの目線が自然と逸れる。
 それ以上踏み込んだ問いかけをしてしまえば、決定的に二人の何かが変わってしまいそうな予感がして、警戒した彼女は口を噤んだ。

 それは皇女の大いなる誤算だった。
 ──ユホンとイル。双方の血を継ぐ御子を産み、この高華国の世継ぎとする。
 全ては亡き父が守り、彼女が愛した高華国のため。正統な世継ぎを立て、王国の玉座を盤石なものとしたい、ユホン皇子とイル王の血脈を王家の系譜に残すことで、両家の確執を終わらせたいという従兄の切なる提案を、ヨナは信じて受け入れた。
 皇女としての自覚を持つがゆえに、そうせざるを得なかった。
 心に想う相手は他にいるが、一人の女である以前に、王国の皇女として生を受けた身である。十六年の時を何不自由なく王城で過ごし、生まれながらの特権を享受して暮らしてきた。高華国皇女の身分にもはや頓着はないが、最後に成すべき務めを果たすまでは、無責任にその位を放棄することなどできようはずもなかった。
 ヨナが従兄に乞われて交わした取り決めは、盟約であって婚姻ではない。男女の愛ではなく、国を愛する情を交わすのである。少なくとも彼女はそのように解釈していた。王族たるもの、個人の感情に揺らいではいけない。ゆえに父王の敵である彼が寝所を訪ねてくることを、彼女は皇女としての最後の務めと客観的に捉えていたし、それは父を殺めた叔父の娘に自分の子を孕ませようとする従兄にとっても、同じことなのだと思っていた。
 完全に、誤算だった。
 あの従兄が男女の愛にほだされることなど、ヨナは予想だにしていなかった。

「城の外に出たいですか?」
 物思いに沈んでいたヨナの意識を、彼の静かな声がすくい上げる。
 ヨナは答えなかった。そして無言は、肯定と解釈されたようだった。
「……彼がいるから?」
 寝台から下りようとすると、その気配を悟ったのだろう、背後の従兄にやんわりと抱き戻される。
「逃げないでください」
 そういうつもりはなく、ただ単に床に散らばった衣服を拾おうとしただけなのだが、信頼が得られるかは怪しかった。ヨナは諦めて、王の腕の中で大人しくなる。
 耳元に囁かれる従兄の声は睦言のように甘く優しいものだが、それでいて有無を言わせぬ響きを含んでいるようにも聞いて取れる。それは国王という至高の地位がなせる業だろうか。あるいは──。
「陛下」
 思考を遮るために、ヨナは自ら声を発していた。従兄が彼女の肉づきの薄い腹部に手のひらを添えて、さらに自分の方へ抱き寄せる。
「何でしょうか?」
「もし、」
 ヨナは一瞬言いよどむが、意を決して問いかけた。
「もし私が、陛下の思惑通りに懐妊できなければ、どうなさるおつもりですか?」
 従兄の手が彼女の下腹のあたりをそっと撫でさすった。
 背後で王が静かに微笑んでいることを、心なしか緊張の面持ちで答えを待つ彼女は知らない。
「こうして共に過ごしているのです。心配しなくても、吉報は近いと思いますよ」
 答えになっていない答えだが、ヨナは安堵に胸を撫で下ろした。勢いに任せて聞かずともいいことを聞いてしまったと後悔し始めていたところだったのだ。
「陛下の仰る通りですね。一刻も早い懐妊を、龍神に願いたいと思います」
 すると従兄の手がぴくりと反応した。ゆるやかだった抱擁が、心なしかきつくなる。
「なぜ、それを龍神に願うのです?」
 ヨナは身を固めた。やや低くなった声は不機嫌の表れだろうか。思わぬ反応だった。安易に後ろを振り返って確認することは躊躇われ、貝のようにじっとしていると、
「──私に願えばいい」
 従兄が静かに、少し掠れた低い声で、彼女の耳に囁きかけてきた。
 
 皇女の懐妊が判明したのは、それからおよそ二月後のことである。


 



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