暁のヨナ | ナノ


▼ 自由【スウォン+ヨナ/大将軍3】

(*「大将軍」「凱旋」に連なります。)


「皇子様、お待ち下さい!」
 女官の慌てた声にヨナは思わず振り返る。玉のように愛らしい皇子が満面の笑みを浮かべて、満開の花々に彩られた赤い回廊を一目散に駆けてくる。
「大将軍!」
 ヨナは咄嗟にしゃがんで両手を差し出し、皇子を抱き留めていた。父王譲りの色素の薄い髪が彼女の鼻先をふわりと擽り、心が懐かしさに満たされる。
「お久しぶりですね、スヒョン皇子」
 憧れの大将軍との再会が余程嬉しかったと見え、皇子は煌めく星々のように双眸を輝かせていた。あらゆる面で父親と瓜二つの皇子だが、その瞳だけは彼女とよく似ているようだった。
「大将軍にお会いしたくて、毎日星に祈りを捧げていました。そうしたら──会えました!」
 スヒョン皇子が感極まったように、頬を摺り寄せてくる。ヨナはふと喉元から熱いものが込み上げてきて、うっかり目に涙を滲ませそうになる。天下の大将軍が一国の皇子に涙など見せられない。泣き出しそうになるのを懸命に堪え、まだ甘えたい盛りの幼い皇子の頭を、震えを抑えた手で優しく撫でてやった。
「皇子様は、お元気でしたか……?」
「はい!お勉強もお稽古も、毎日頑張っています!」
「そうですか。それは、素晴らしいことですね」
 大将軍の美しい笑顔に、皇子の白磁の頬がほんのりと淡い牡丹色に染まる。彼女がこうして褒めてやると、皇子はその言葉が何よりの幸せであるかのように、この上なく嬉しそうに笑うのだった。
 帝王教育はいずれ皇太子に擁立されるべき皇子がまだ物の分別もつかぬ幼いうちから始まる。かつて神童と謳われたスウォン国王の血を分けた息子だけあり、スヒョン皇子もまた、早くも各方面において並外れた才能を発揮しているようである。
 ヨナは感慨深く皇子の姿を見つめる。
「しばらくお会いしないうちにまた、少し背が伸びたのですね?」
「はい!」
 スヒョン皇子は懸命に爪先立ちして、少しでも背を高く見せようとしている。
「早く父上のように大きくなりたいです。──いつか大人になったら、ハク将軍のように、大好きなあなたと共に戦場に出るのが私の夢なのです!」
 ヨナははっと瞠目する。幼い皇子の屈託のない笑顔に胸を衝かれ、目頭がまたもじわりと熱を持った。
 ──私の可愛い皇子。
 そう呼びかけて、思う存分その小さな身体を抱き締めることができるなら、どれほど良いだろう──。
「畏れながら皇子様──その夢は、叶えて差し上げられないかもしれません」
「……え?」
「いいえ。──叶えて差し上げることは、ありません」
 皇子がきょとんとした顔をする。込み上げる愛おしさを胸に押し留め、ヨナは噛み締めるように言葉を継いだ。
「決して、意地悪を言っているのではありませんよ」
「わかっています。大将軍はお優しい方ですもの。でも……なぜ?」
 幼い皇子の瞳は理由を求めて心もとなく揺れている。
「畏れながら皇子様。今はまだ、お話しするべき時ではないようです」
 我が子と呼ぶことを諦めた愛すべき皇子。彼女は万感の思いを籠めて、その小さな頭を撫でる。
「ですが、私の言ったことの意味がいずれお分かりになるでしょう。皇子様が今よりもずっと大人になられた時に、──きっと」


 かつて皇女と呼ばれた人は、大将軍の赤鎧に身を固め、愛する祖国に永遠の忠誠を誓った。
 戦乱の世はまだ収束に程遠い。対話よりも刃を交える方が手っ取り早く、先決であるとされる時代は今もなお続いている。彼女とて少女の頃は戦力を用いぬ和平の道を目指したものだが、残念ながらそれは所詮独り善がりの夢物語でしかなく、敵方からの理解が得られることはなかった。
 王国軍の旗印を天高らかに掲げ、平和を夢見る美しき大将軍は、今日も砂塵の吹き荒れる戦場にその身を投じる。
 道行きは遥か遠いものだが、歩いていけばきっと、その果てに辿り着くだろうことを彼女は知っている。
 いつの日か、血で血を洗う戦禍の時代は終焉を迎えるだろう。必ずや終わらせてみせると、心に固く誓った。幼い皇子が長じて、高華王国の玉座に座るその時までに。
 親愛なる王の即位祝いとして、かつてない安寧の世を贈るために──。


「私の王妃になってはくれませんか」
 国王の縋るような愛着の眼差しを一身に受けながら、なおも先王の皇女は静かに首を振る。
 皇女の細腕にいだかれて、生まれたばかりの皇子は安らかに眠っている。
「陛下。畏れながら私は、陛下の妃になることも、皇子の母になることもないでしょう。皇女の位も、放棄するつもりです」
「ヨナ……」
「陛下」
 皇子を王の腕に委ね、皇女はその場に膝をつく。
「陛下は私に世継ぎをお望みになりました。私はその望みを叶えて差し上げました。
 ──私が陛下に望むものは、ただひとつ」
 揺るぎない瞳が、動揺を露わにする王の白面を見上げた。

「私を、戦場へお送りください」

 若き王の清らかな瞳から、涙が伝い落ちる。
「愛するあなたに、そのような道を歩ませよと言うのですか」
「お忘れください」
 皇女は決然と言い切る。
「この一年間、私にかけてくださった情けは、どうかお忘れください。私も皇女としての最後の務めを果たしたと思い、忘れることに致します。
 私は愛する高華国にこの身を捧げます。──誰のものにも、なりません」
 ですが、と美しき皇女は凛とした声で言葉を継ぐ。
「私の心は自由です。この心はただひとり、私だけのもの」
 永遠に得がたい存在を前にして、国王は一層端整なおもてを悲しみに曇らせる。
「では、その心は今、誰と共にあるというのです?──きっと、私の傍に置いてはくれないのでしょう?」
 全てを見透かすような瞳で王を見つめながら、皇女は静かに微笑む。
「スウォン」
 国王の双眸からまた一滴、涙が零れ落ちた。長いこと、その名を呼ばれたことがなかったような気がしていた。
「泣かないで。悲しいことなんて、何もないわ」
 赤き龍の瞳は、目先の別れなどよりも、遥か先にある未来を見据えていた。

「私とあなた、そしてハク。──私達三人とも、きっと目指すところは同じなのよ」






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