▼ 秋夜王城聞龍琴【ジェハ+ヨナ/未来】
「琴を習っていたことがあると、前に言っていたね」
雲が月を覆い隠すように、ヨナの上に影が重なる。 庭園に敷いた毛氈の上に座り、ひとり琴をかき鳴らしている彼女。長身を屈めて上からその手元を覗き込んでいるのは、緑龍ジェハその人である。
目が合うと、彼は切れ長の目を一層細めた。
「見事なお手前で。我らがお姫様」
「……ジェハにそう言われても、全然褒められてる気がしないわ」
「心からの褒め言葉だよ」
翡翠の撥【ばち】をたどたどしく動かしながら、唇をとがらせるヨナ。
「どうしてもうまく弾けないの。しばらく稽古しないでいたら、手がすっかりなまっちゃったみたい」
「ただでさえ、龍琴は弾くのが難しい楽器だからね。感覚を取り戻すまで、時間がかかるのは仕方のないことさ」
龍琴とは、高華国の伝統楽器である。
非常に高価な楽器であるため、嗜むことができるのは、王族や貴族などの上流階級のみとされている。
父王の生きていた頃、ヨナも皇女の身につけるべき教養のひとつとして、宮廷楽団の楽士から龍琴の手ほどきを受けていたものだった。
「ヨナちゃんは、どんな曲を練習したんだい?」
「すっごく渋い曲ばかり。『龍仙樂』とか、『緋城招龍』とか、あとは──『湖面龍影』?色々練習したけど、他はもう忘れちゃったわ」
ジェハは堪えきれず、くすくすと笑う。
「宮廷音楽か。確かにどれも眠くなりそうな曲だよね。ヨナちゃん、時々、居眠りしてたでしょ?」
「──し、してないわ!」
「本当に?」
「本当よ!譜面だって、ちゃんと覚えてるんだから……」
躍起になって弦をかき鳴らすその姿に、ああ、これは図星だろうな、と緑龍は微笑ましく思う。
──まどろみながらも、琴の稽古に励んでいただろう幼き日の姫君。
その愛らしい姿を、もし時間を巻き戻すことができるなら、この目にしかと焼き付けてみたいものだ。
「ちょっと貸してごらん」
ジェハは彼女のすぐ後ろに膝をつく。片方の手は撥をとるヨナの手に、もう片方の手は、琴をおさえる手に添えた。
必然的に、背後からヨナを抱き締めるような格好になる。
「僕にまかせて」
一度は動きを止めた撥が、ふたたび弦をはじき出す。
「さっきまでと、音が全然違う……」
ヨナの声が耳に心地良い。
嫋々と、秋の夜長に染み入る龍琴の音は、彼の心に長い余韻をとどめる。
ジェハは彼女の赤い髪に、鼻をうずめた。
かけがえのない存在を独り占めする喜びに、その心はこのうえなく満たされる。
けれど同時に、この世の誰よりも愛しいはずの彼女が、少しばかり恨めしくも思えるのだった。
髪から香る甘い匂いに、彼がどれほど身を焦がしているかを──きっとこの姫君は、永遠に知らぬままでいて、いずれは今日という日を忘れ去るのだろう。
数え切れぬほどの、ありふれた夜でしかないのだ。彼女にとって、彼と過ごす今この瞬間は。
彼にとって、生涯忘れ得ぬ一夜であったとしても。
「ジェハ、龍琴を弾いたことがあるの?」
「ないよ」
えっ、とヨナは大袈裟に肩を揺らす。
「弾いたことがないのに、弾き方がわかるの?」
「わかるよ」
「どうして?」
「楽器はね、小手先で弾くものじゃないからさ」
撥を握る手に、力をこめる。
琴を弾いて聞かせることなど、二の次だ。
本当はただ、こうして、彼女の手に触れていたいだけだった──。
「心で弾くんだよ」
「……心で?」
「そう。この音色を届けたいと思う、相手のことを考えながら」
ヨナの表情は彼からは窺い知れない。だがジェハには、手に取るように彼女の考えていることがわかる。
彼女が琴を弾き聞かせたいと思う、唯一の相手。
もっともらしい理由など作らずとも、思うままに彼女の手をとることを許された男。
高華の雷獣が、高窓からこちらを見下ろしている──。
そのことを彼女に教えてやらないのは、ささやかな意趣返しだ。
「……ほら。いい音になった」
「本当に?」
ヨナの顔を覗き込めば、その頬は、咲き初めの牡丹のように淡く色づいている。
あの男なら、きっと、考えなしにその唇を奪いおおせてみせるのだろう。
「ジェハって、本当に上手なのね。なんでも弾けちゃうなんてすごいわ」
彼女はご満悦だった。
彼が笑顔の裏に、苦しみのすべてをひた隠していることも知らずに。
「ジェハにも、誰か聞かせたいと思う人がいるの?」
天真爛漫な笑顔で、振り返る。
彼もにっこりと、何食わぬ顔で笑い返す。
「ああ。──いるよ」
龍琴の音がわずかに揺らいだことに、彼女は、きっと気づいてはいないだろう。