暁のヨナ | ナノ


▼ 蒼狼記 【ハクヨナ】

 高華王国と国境を接する戒帝国の北西には、長きに渡り騎馬民族の支配下にある統治国家が存在する。
 広大な草原の占める緑深き大地に暮らす遊牧民達は、みずからを建国の始祖「蒼き狼」の子孫と称す、誇り高き民族であるという。

 この辺りではめずらしく、毛並みの上等な馬に乗っている旅人がいた。
 身に纏う衣装も簡素ながら品のいい代物だ。王城暮らしで審美眼の肥えたヨナには一目でわかる。戒のものと似ているが、毛皮のついた外套や見馴れない形の帽子、先のとがった長靴などからは、より異国情緒が感じられる。
「あれは、きっと異国の旅人だろうな」
 どうやら隣を歩いていたハクの目にも留まったらしい。
 おそらく近隣の市場で買い物をするためだろう、旅人が馬からおりて手綱を引きながら厩【うまや】に入っていくのを、彼も遠巻きに観察している。
 ヨナは上目遣いに従者の顔を見上げた。
「あの人、外国から来た商人かしら?」
「さあな。商人にしては、ちと身軽すぎやしませんかね?」
「戒の人とも違うような気がする。こんな小さな町に、何の用かしら?」
「ヨナちゃん。そんなに気になるなら、本人に直接聞いてみたらいいんじゃない?」
 にこにこと笑いながら会話に割り入ってきたのはジェハである。背後でヨナ達の歩みが止まったので、聞き耳を立てていたようだ。
 馬をつなぎ終えたらしい旅人が、厩から出てきた。
「どれどれ。ちょっとお兄さんが話しかけてみてこようか」
 ヨナの目に好奇の光がきざしたを見たのだろう。返事を待たずに、緑龍は彼女の肩をぽんとたたいて、意気揚々その旅人へと近づいて行った。
 ヨナは感心してしまう。
「ジェハって、本当に気さくよね。知らない人にもあんなふうに臆せず近づいていくんだもの」
「相変わらず鬱陶しいくらいの馴れ馴れしさだな。……お、こっち見てるぞ」
 大仰な身振りで旅人に話しかけながら、ジェハがヨナ達を指差していた。
 つられて旅人が、彼女たちへと視線を移す。
 帽子のつばに隠れていて見えなかった顔が、遠目ながら露わになる。
 ──ヨナは思わず、隣のハクの顔を凝視してしまった。
 あの異国の旅人に関して、ハクはさして興味がなさそうな様子だ。ちらりと一瞥するなり、先に行ったユン達の後を追いたそうに、視線を逸らしてしまった。
「ほら、こっちに歩いてくるみたいだぜ。姫さん、あんたが自分で蒔いた種なんですから、応対よろしく頼みますよ」
 言うなり、野宿で寝違えただろう首を左右に傾けながら、ハクはさっさと先を行ってしまった。
 旅人を連れて戻ってきたジェハの目は、淡泊な従者とは打って変わって好奇に満ちている。何かとてつもなく興味深いものを見つけた目だ。彼もまた、その男と顔を合わせてみて、一目でヨナと同じことに気づいたのだろう。
 気がつかないほうがおかしい。
「あれ?ハク、行っちゃったの?せっかく面白いことになりそうなのに」
 ジェハと同様、旅人はハクの遠ざかる後ろ姿を目で追っていた。
 何か親しいものを見るかのようにその目が細まったのを、ヨナは見逃さない。
「これは、失礼致しました」
 ハクの姿が見えなくなると、彼はようやくヨナの視線に気づいて、一礼した。
 間近で見るその顔から、目が離せない。
「私は──王家に仕える身。王命を受け、さる御方を捜して旅をしています」
 彼が口にした王国の名は、戒帝国と国境を接する遊牧国家であった。
 その国の民は、眠りながらでも馬に乗ることができるとの逸話を耳にしたことがある。草原をさすらう流浪の民は、体格や身体能力に優れているということだろう。
 なるほど、長身のジェハよりも、旅人はさらに背が高かった。
 それはつまり、ジェハと背丈の変わらぬハクよりも、やや長身ということである。
 そして、その顔は──。
「似ているよね、ハクと」
 彼女の心を読みでもしたのか。黙ったままでいるヨナの顔を、ジェハが横から覗き込んできた。
 旅人は二人の後ろをついてきている。人捜しに協力すると、ジェハが言いくるめたのだ。
 なにがなんでも彼をハクと引き合わせるつもりらしい。
「他人の空似とはとても思えないな。ヨナちゃんも同じ意見だろう?」
「──そうね」
 本当に、瓜二つだわ。
 ヨナが上の空でいることを、ジェハは気にかけているようだった。
「どうしたの?ヨナちゃん、元気がないようだけど」
「そんなことないわ」
「彼のことで、何か気になることでもあるのかい?」
 つい溜息がこぼれる。
「わからない──。ただなんとなく、心がもやもやするの」

 悪戯が過ぎただろうか。
 ぼんやりとした目で仲間達を捜す、赤い髪の姫君。その横顔を眺めながら、緑龍は己を戒める。
 彼女はまだ恋を恋とも知らぬ少女。
 妙な思いつきでその心を掻き乱したりなど、しなくてもよいだろうに。
「おーい!ヨナとジェハ、こっちだよー!」
 買い物を終えたらしいユンが、ヨナ達を見つけて手を振っている。ハクはキジャとなにやら額を突き合わせており、シンアとゼノが仲裁しているようだ。お決まりの小競り合いだろう。ヨナはにっこりと笑って、ユンに手を振り返した。
 気がつけばもう夕刻を迎えていたようで、西の山から斜陽が差し込んでいる。
 少女の燃えるように赤い髪には、夕焼けがよく映えると、青年は思う。
「あの方々も、あなたのお仲間ですか?」
 旅人が声をかけてきた。改めて間近で見ると、本当によく「雷獣」と似ている。
 ──彼女が平静でいられるはずもない、か。
 その心にいるのは「雷獣」その人なのだから。
 自嘲気味に、緑龍は笑う。
「そうだよ。変わってる連中だろう?」
「──あの青年、名はなんと?」
 異国の旅人の目に留まるのは、やはりただ一人のようだ。自分とよく似た顔なのだから、当然だろう。
「彼はね、ハクというんだ」
「ハク様、と申されるのか──」
 様、という尊称にジェハは違和感を覚える。だが、王族に仕える身であれば、他人を敬う習性が身についているものなのだろうと思いなおした。
 異国の人間ゆえ、彼の素性を少しばかり明かしたところでさして問題はないだろう。
「ハクは凄腕の武人でね。年は確か、十八といったかな?まだ若いのに、腕っぷしで敵う相手はそうそういない。彼が戦場に出れば、まさに百人力さ」
 旅人はひどく感銘を打たれた様子だった。
「ジェハ殿。あの御方、年は十八と申されたか?」
「ああ……確かそれくらいだったはずだよ。それがどうしたの?」
 ヨナが不安げな面持ちで振り返る。なかなかユン達のところへ行かないと思ったら、二人の会話に耳を傾けていたようだ。
 旅人は視線の先にいる「雷獣」を、食い入るように見つめていた。
「──私が捜している御方が、ようやく見つかったやもしれません」

 今夜の宿代を出してくれるという見ず知らずの異国人の善意に、一行はありがたく甘えることにした。
 ヨナだけが乗り気ではなかったが、当の本人からどうしてもと食い下がられては、好意をはねのけるわけにもいかない。
 小さな町の中にただ一つのこぢんまりとした宿屋を、旅人はわざわざ貸し切りにした。
「しかし、旅人殿はなにゆえ見ず知らずの我らに、このように善意を施されるのか?」
 さすがに疑問を覚えたらしいキジャが、夕餉の席で酒に頬をほんのりと染めながら、首を傾げる。
 旅人は独特の形をした琴を──彼の国では「馬頭琴」と呼ぶらしい──鳴らす手を止めず、自らが振る舞った酒でほろ酔い加減のキジャに、気さくに笑いかけた。
「私のことは、アルタンとお呼びください。──こうしてお近づきになれたのも、何かの縁かと思いまして」
「しかし、この酒はやけに強いな。焼酎か?」
 酒気でしびれるのか、舌を突き出しているのはハクである。傍らのキジャがまじまじとその顔を眺め、ついでアルタンに視線を戻したかと思うと、またハクに釘付けになった。
「なんだよ、白蛇。俺の顔に何かついてるか?」
 ユンとシンア、そしてゼノも、気づかれないようにしているつもりだろうが、先程から明らかにハクとアルタンの顔を見比べている。
「ううむ、他人の空似というものであろうか?」
「……すごく似てる」
「うん。びっくりするくらい、そっくりだよね」
「兄ちゃんと旅人さん、ひょっとして血がつながってたりするのかもなー」
 ゼノの何気ない一言を、アルタンは笑ってやり過ごした。
「お嬢さんは、こちらの馬乳酒をどうぞ。我々がアイラクと呼んでいるものですが、口当たりがよくて大変飲みやすいですよ」
 ヨナはハクの隣にちょこんと座っている。どういうわけか、この宿屋に入った時から、片時も彼の傍を離れようとしないのだ。
 ヨナがなかなかアルタンの杯を受けようとしないので、横からハクがかすめ取ってしまった。
「どれ、じゃ俺が一口味見してみますかね」
「ハク、毒見役の真似事かい?」
「テメーは黙って飲んだくれてろ、タレ目」
 一気に呷る。空になった杯に、アルタンがまたこぼさないように注意しながら、とろりとした馬乳酒を注いだ。
「これは酒じゃねえな。甘ったるい。お嬢さん、これなら飲んでも大丈夫ですよ」
「いらないもの。お酒なんて」
「何、拗ねてるんです?可愛いお顔が台無しですよー」
 ハクの両手で頬を挟まれ、顔を覗き込まれて、ヨナは耳まで赤くなる。
 見ていられないな──と胸に痛みを覚えて顔を背ける龍が、若干二匹。
「拗ねてなんかないわ!」
「じゃあ、なんで意地張ってるんですかねえ。食べ物だって、一口も召し上がっていないようだし」
 ハクには大事な姫君がこうも頑なになる理由が皆目見当もつかない。そもそも宿をとること自体に難色を示していたようだったが、よもや野宿の方が良かったなどと拗ねているわけでもあるまい。
「なんなら、俺が親鳥みたいにかいがいしく食べさせて差し上げましょうか?」
「け、結構よ。それにその箸、ハクが使った箸じゃない」
 箸で料理をとって口元に運んでやろうとすると、そう言ってそっぽを向かれた。城から追い出されてこの方、いついかなる時も寝食を共にしてきた仲だ。今更同じ箸を共有するくらい、どうということもないだろうに。
「──私、ちょっと疲れたみたい。先に部屋に戻ってるね」
 ヨナは結局、料理にも酒にもいっさい手をつけずに宴席を離れてしまった。

 きっと、ふて寝してしまったのだろう。
 布団も敷かずに、海老のように丸まって眠るヨナを見下ろしながら、こみあげる愛おしさに彼は胸をつかむ。
「今日はなんだって、あんなにご機嫌斜めだったんですかねえ──」
 城にいた頃は甘えん坊で我儘な姫君だった。気に入らないことがあると、丸一日目も合わせようとせず、口さえきいてもらえないこともあった。この姫君に身も心も捧げた彼としては、想い人である彼女に振り回される日常は、決して悪くはなかったが。どうやって機嫌を直してもらうか、苦労したことは確かだ。
 近頃はヨナもだいぶ分別がついてきて、そういうことはしなくなった。
 つねに傍で見守ってきた護衛として、彼は姫君の成長を喜ばしく思っていた。だがその反面、自分の知っていた自由奔放な姫が巣立っていくようで、やや寂しくもあったのだ。
 手早く布団を敷いて、床から姫をそっと抱き上げる。細い首が後ろにのけ反って、白い喉仏が露わになった。
 聞こえるはずもないのに、つい声をかけてしまう。
「姫さん。おなかは空いていませんか?──喉は渇いていませんか?」
 何も召し上がっていなかった。食べ物の一口も、飲み水の一滴も。ずっと隣にいて、彼女のことを見ていたから知っている。万が一夜中に目が覚めて、腹を減らしていたら、水をほしがっていたらと思うと、とても暢気に眠ってなどいられない。
「あなたの目が覚めるまで、今夜はここに控えていますから。──起きた時には、存分に我儘言ってくださいよ」
 赤い前髪をそっと撫でて、その眉間に、静かに唇を落とす。こういう類の悪戯はもうしないと約束をした以上、本人のあずかり知らぬところでするしかなくなった。
「聞こえますか、姫さん。あの異国人、まだ楽器を弾いてるみたいですよ──」
 今夜は異国の焼酎に、すっかり酔い痴れてしまったようだ。

 聞こえているわ。
 あの馬頭琴の音も、お前が私に囁いた言葉も、全部──。
 ヨナは夢うつつに返事をする。声に出す勇気はないので、心の中でひっそりと。
「──ハク、もう一度下りてきてもらえるかい?彼が、君と話をしたいそうだよ」
 しばらくハクの手に頭を撫でられる心地よさにまどろんでいたが、部屋の外からの呼び声でその手は離れてしまった。名残惜しく思いながら、ヨナはハクが静かに襖を閉じる音を聞く。
 足音が消えたのを見計らって、布団から身を起こした。
 抜き足差し足、階段を下りていく。
 皆で夕餉を囲んだ部屋はまだ賑やかだった。おおかたキジャ達が羽目を外しているのだろう。貸し切りなので、多少騒いでも他の宿泊客に迷惑をかけることもない。
 奥の部屋から話し声が聞こえてきた。足音を立てないように気をつけて、襖に耳をそばだてる。
「──盗み聞きかい?」
 驚いて悲鳴をあげそうになるのを、声の主が彼女の口を手で押さえて制した。
 ジェハである。
 人差し指を口に当て、彼もヨナと同じように、部屋の中の会話に聞き耳を立てる。

「私とともに、国へいらしてほしいのです」

 力強いその声は、アルタンのものだった。
 ヨナの目が、はっと見開かれる。
 ──心がもやもやとしていた理由は、これだ。
 ハクとよく似た顔をした、この見ず知らずの異国人に、彼女にとってかけがえのないものを、とられてしまうような気がしたのだ──。
「人違いじゃないですかねえ。俺はこの国の、身元も知れない孤児の出自ですよ?」
 ハクの声だ。投げ遣りな、面倒事を軽くあしらうような声音。
 しかしアルタンも引き下がろうとはしない。
「あなたは孤児などではありません。なぜならあなたは、誇り高い『蒼き狼』の末裔なのですから」
 蒼き狼の末裔。
 その国の民は、自らをそのように称すという。
「あなたこそが、長年、我らが王の捜し求めておられた御嫡男。十五年前、人攫い共によって居所より連れ去られた、第一王子に間違いありません」
 水を打ったように、部屋の中が静まり返った。
 かと思うと次の瞬間、ハクがおかしそうに笑い飛ばす豪快な声が、外まで漏れ出て聞こえてきた。
「俺が一国の王子だって?おいおい、妙な冗談はよせ」
「冗談など申してはおりませぬ。行方不明のアルマス王子は、私の甥御なのです。──この顔を見ても、あなたはまだご自分と私が『赤の他人』だとお思いか?」
 ハクの笑い声がやむ。
 入れ替わりに、今度はヨナが笑い出したい気分だった。
 長年従者として彼女に仕えてきたハクが、よもや一国の王位を継ぐ太子の身分とは──。
「王は世継ぎの王子を何としてもお側に召したいと仰せです。私の国では、王位を継ぐのは嫡男のみと定められておりますゆえ」
「それはご苦労なことだ」
 まったく他人事のような言いぶりである。
「はっきり言っておくが、どんな御託を並べても無駄だ。俺はあんたについていく気は毛頭ないからな」
「何故です?」
 アルタンは困惑しているようだった。
「国に戻れば、あなたは王になれるのですよ。王位につけば、あなたが望むものは何もかも思いのままになるというのに──」
「あんたもしつこいな。人違いだって言ってるのによ」
 ハクが溜息をついた。
「それに……。俺が望むものは、たとえ王位についたとしても、決して手には入らない」
 しばらくの沈黙の後、アルタンは静かに口を開いた。
「真実をどう受け止められようと、あなたが草原の民であることに変わりはありません。『蒼き狼』の血を継ぐあなたは、いつの日かきっと、あるべき場所へ帰りたいと願うでしょう」
 ハクの答えには迷いがなかった。
「誰が何と言おうが、高華こそが俺のあるべき国だ。ここで自分の好きなように生きて、いつの日か骨を埋める。俺の生き方は俺自身が決める。あんたの言う『草原』は、俺の帰る場所じゃない。どれだけ説得されても、俺が心変わりすることはない」
「……王位をなげうってまで、この国に留まりたいと?」
 ハクが笑っている、ヨナはそんな気がした。
「離れがたい人がいるんでね。──あんたには悪いが、俺はもうとっくに『お手つき』なのさ」

 部屋に戻った少女は何とも形容しがたい表情をしていた。
 それでも何かしら声をかけねばなるまいと、緑龍は微笑みを繕う。
「安心した?ハクが残ってくれることになって」
「正直に言ってしまえば、そうね。……私っていやな子だわ」
 ヨナは自己嫌悪に駆られているようだった。
「何故そんなことを言うの?」
「我儘で傲慢な自分に嫌気がさすのよ。ハクを独り占めしたいだなんて──誰にも渡したくないと思うなんて」
 ジェハの静かな微笑みに隠された荒涼とした胸の内を、彼女は露ほども知らないだろう。溢れるままに、自らの本心を打ち明ける。
「ハクがあるべき場所を知ったことを、本来ならば素直に喜んであげるべきなのよね。きっと、潔く笑って送り出してあげるべきなのよね。彼のことを本当に大事に思うのなら」
「……ハクはそんなこと、望んじゃいないと思うけどね」
「いいえ。家族がこの世に存在するということが、どんなに幸せなことか、私はよく知っているわ」
 ヨナの瞳が今にも泣きだしそうに潤んでいる。
 他の男のことを思って胸を痛めるこの少女が、恨めしくて愛おしくて。
 ジェハは思いの限り彼女を胸に掻き抱くことを、どうしても止められなかった。
「君はいやな子なんかじゃない。ハクだって、そんなことは思っちゃいないよ。君のことが大事で、守りたいと思うから、君の傍にいるんだ。それはヨナちゃんが強要していることじゃない」
「ジェハ──」
 大人の胸は無条件に安心できるのだろう、ヨナは身構える様子もない。小さくしゃくりあげながら、おとなしく抱かれたままでいる。
「ハクがもし、心変わりしたら、その時私はどうしたらいい?」
「そんなことは、絶対にありえないと思うけどね──」
 決して気づかれることのないように。
 青年は愛しい少女の頭の上に、静かに唇を落とした。
「でももし万が一、そんなことが起きたとしたら。僕がどこまでも彼を追いかけていって、君のもとへ連れ戻してあげるよ。海を越えようが、草原の果てまで行こうが──きっとね」
 だからもう泣かないで。
 君の涙を見ていると、胸がひどく痛んで苦しいんだ。


「アルタン殿は行ってしまわれたのか?」
「はい。昨夜遅く、勘定を済ませてここを発たれました。用事が済んだので、国に帰られるとのことでしたよ」
 宿の主人の返答に、キジャは二日酔いでやまぬ頭痛を抱えながら、浮かない顔をした。
「人捜しが済んだということだろうか?昨夜は我らと宴に興じただけであったが──」
「まあまあ。異国の人なんだし、下手な詮索は無用だよ」
 ジェハがとりなす。白龍は荷を背負い、ほうと溜息をついた。
「受けた恩義を返すこともまかりならぬとは。せめて帰路が安全なものであることを祈るしかあるまい」
 ヨナは目覚めてからずっと、ハクのことを目で追っている。昨夜とは違い、ほんの少し距離を置きながら。
「行こっか、娘さん」
 ゼノの陽だまりのような笑顔。彼に手を引かれて宿屋の敷居をまたぐと、ヨナは幾分か心が軽くなったような気がした。
 燦々と降り注ぐ朝日の中に、大刀を携えたその青年はいた。
 思わず見とれていると、相変わらず満面の笑みを浮かべたゼノがひょっこりと顔を覗き込んでくる。
「そういえば娘さん、おなか空いてない?喉は渇いてない?」
「え?」
「存分に我儘言っていいんだよ。ゼノはさ、娘さんの龍なんだから」
「──おい、ゼノ」
 ハクが反応する。その顔が引きつっているのを見て、そういえば昨夜、彼に同じようなことを言われたのだったと、ヨナは思い出す。
「ひょっとするとお前、聞き耳立てて……」
「えー、何の話?」
 永遠の十七歳はとぼけた顔をして、ハクの背中をぽんと叩いた。
「兄ちゃん、頑張れ!」
「何をだよ?」
「んー、色々と!」
 陽気に鼻歌を歌いながらユンや龍仲間のもとへ走っていく黄龍。
 やっぱり聞いてたんじゃねえか、と後ろ頭を掻きながらハクはぼやく。
「まあいいや。とにかく姫さん、もし何かあったら、俺に言ってくださいよ」
「じゃあ、一つだけ聞いてもらえる?」
「なんです?」
 ヨナが内緒話のように声を潜めるので、長身のハクは腰を屈めて前傾姿勢をとらねばならなかった。
「──ありがとう」
 耳元に囁いた。彼が不思議そうな顔をする。
「何が?」
「いつも私の我儘を聞いてくれて、傍にいてくれて、ありがとう」
 ハクはまじまじとヨナの顔を覗き込んだ。
「姫さんの我儘は、昨日や今日に始まったことじゃないですがね。一体、どういう風の吹き回しです?」
「いつもいつも一言多いわね、お前は」
 唇をとがらせ、その耳をつまんでやる。
 すいませんね、と従者は悪戯っぽく目を細めた。
「礼には及びませんよ。俺はもう、とっくに姫さんのものなんですから。──『俺が欲しい』と言ったことを、もうお忘れですか?」
 ヨナはふと、聞いてみたい衝動に駆られる。
 ──お前が王位についたとしても、手に入らないと思うもの。
 離れがたいと思う人は、一体誰かしら。
「憶えているわ」
 確かにお前が欲しいと言った。
 離れがたいと思った。誰にも渡したくない、とも思う。
「……でも、我儘は所詮、我儘。独りよがりでしかないんだもの」
 高華の雷獣を、この強くて美しい獣を、縛めることなどできはしない。
 いつの日か、お前が緑なす草原の狼に戻りたいと願うのなら──。
「独りよがりなんかじゃない、と言ったら?」
 ヨナははっと従者の顔を見上げる。
 からかっている様子ではない。その目は、真っ直ぐに彼女だけを見ていた。
「……信じてもらえますかね?」
 信じてもいいの──と。
 聞き返そうとした時、盛大に腹の虫が鳴った。
 ──沈黙。
 張りつめていた緊張の糸が緩み、ハクの肩が小刻みに震え出す。
「やっぱり、腹、減ってたんじゃねえか……くくく」
「わ、笑わないでよ!」
 乳を欲しがってむずがる子どもをあやすように、よしよしと頭を撫でてくる。
 その手にどれほどの慈愛が籠められているか。
 理不尽な子ども扱いとしか思えない少女には、まだ知る由もない。
 この世の何をおいても彼が守りたいと思う存在が、他ならぬ自分自身であることを。
「ユンに食い物、もらってきますよ。腹がいっぱいになれば、きっとまたいつもの姫さんに戻るでしょうからね」




(おまけ)

「しかし、まことに残念です」
 アルタンの溜息はとどまるところを知らない。焼酎を呷りながら、何度も愚痴をこぼしている。
「ようやく王子と再会できたというのに、兄王のもとへお連れすることができぬとは。どう報告申し上げればよいものか──」
 知らぬ存ぜぬを決め込むつもりだったが、ここまで未練を垂れ流されてはハクもさすがに無視できなくなってくる。
「あんた、その王子の叔父なんだよな?」
「はい。王子は、それはそれは勇ましいお子でいらっしゃいました。私は臣籍へ下った身ですが、よく兄王が居所へ召されたので、王子の遊び相手になって差し上げたものです」
 へえ、と酒を嗜みながらハクは何気なく聞き流していたが、続く思い出話にはつい噎せ返ってしまった。
「王子には縁談もあったのですよ。この高華王国の、まだお生まれになって間もない姫君と」
「──ヨ、ヨナ姫と?」
「ご存知なのですか?」
 ご存知もなにも、一つ屋根の下にまさにその姫君がおわすのだが──。
 そのようなことをあえて口にする必要もない。
「確か、王子とは三つ違いの姫君でしたね。当時我が国は戒への抵抗手段として、高華と手を結ぶが得策と考えていたのですよ。戒の侵略行為には目に余るものがありましたからね。我が国の王子と高華の姫君との婚姻によって同盟を、との計らいだったのです。──結局は王子が姿を消したことにより、破談となってしまいましたが」
 ハクはつい、想像せずにはいられなかった。
 遊牧民の王子として育った自分が、高華王国から輿入れしてきた皇女ヨナを颯爽と迎える。ヨナは馬に乗ることなど到底できぬ、深窓育ちの姫君だ。不安げな面持ちで夫である彼に頼ってくる。彼は草原の暮らしについて、花嫁に手取り足取り教えてやる。お転婆で好奇心旺盛な姫君は、すぐに新たな暮らしに適応し、やがて彼と並んで馬を駆るようになる──。
「……ハク様、何をにやにやしておいでなのです?」
「いや。ちょっとの間、いい夢見させてもらったぜ」
 首を傾げる異国人に向かって、ハクは上機嫌に笑う。
 なるほど、そういう出会いも悪くはなかったかもしれない。ありえたかもしれない未来の芽を摘まれたことが、ほんの少しだけ悔やまれた。







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