暁のヨナ | ナノ


▼ 月光 【シンア+ヨナ】


 星満天の夜空に浮かぶ月が、静かな湖にきらきらと光のつぶを落としている。
 月光の恩恵を受けて、宵の湖はいっそう青く輝きを放つ。波紋のひとつさえ浮かべずおだやかに凪いだ水面は、聖人の心のように澄んだ水鏡となって望月を映し出した。
 大樹の根元に腰をおろす仮面姿の青年は、ただ一点を静かに見つめている。視線の先にあるものは、湖でも月でもない。湖に細い脚をひたし、月光を浴びている、小さな背中。
「シンア」
 こちらを振り返り、赤髪の少女が可憐に笑いかけてくる。月の光を意味するその名は、少女があたえてくれたものだ。
「こうしていると、とても心地が好いわ。うっかり眠ってしまいそうなくらい。──こんなに綺麗な場所を見つけられるなんて。あなたの眼って、ほんとうに凄いのね」
 ヨナのつけている耳飾りの音だろうか。彼女が小首を傾げるたびに、しゃらん、と彼の耳に心地好い音が聞こえる。ふふ、とヨナが小さな唇からこぼす笑い声は、なぜか耳がこそばゆくなるのに、その反面、耳をそばだてていつまでも聴いていたくなる。
「お忍びの月光浴。物思いに耽りたいときには最高だわ。ねえ、でもシンア、みんなには内緒よ?私とシンアだけの秘密にしましょうね」
 ヨナが優しく目を細め、人差し指を唇にあてている。シンアもその真似をしてみると、思いのほかうけたらしい。彼女の鈴を鳴らすような笑い声が、またも彼の耳をいたずらにくすぐった。
「ヨナ……」
「なあに、シンア」
「あまり水辺に長くいると、風邪ひいちゃう……」
「心配してくれるの?優しいのね、ありがとう」
 ヨナは聞き分けよく湖から離れた。裸足でシンアの隣までやってきて、ぴったりと身を寄せるように腰をおろす。裙子の裾が持ち上がり、ふくらはぎまであらわになる。白くしなやかな脚を、透き通った水のつぶがゆっくりとくるぶしに向かって伝い落ちていく。
 ただでさえ小さくて華奢な足なのに。裸足のままでいては、冷えてしまうだろう。
「靴……」
 シンアは水際に置き去りにされたヨナの靴を拾いにいった。ヨナは膝を抱えておとなしく待っていた。靴を見つけてシンアが木の下に戻ると、彼女が柔らかに微笑んでいた。なぜか胸が締め付けられるようなその微笑み。
 ヨナの隣には座らず、正面に膝をつく。仮面越しから上目遣いに彼女の目を見つめる。青龍の眼が映す少女の姿はいつもあたたかな光を纏い、まばゆいばかりに輝いている。
 時が満ちれば沈んでいく太陽や、月、暁や宵にのみ光る明星などは、その輝きには到底かなわないだろう。いつどんなときにも、ヨナという光が陰ることはないのだから。
 小さな足の片方を、眠る雛鳥をあつかうかのようにそっと両の手にとった。水に浸された足はやはり少し冷えているようだ。子どもの足のように可愛らしくて、包み込んであたためていてあげたいと思う。緑龍の口にする「女性は真綿でくるむように」という常套句が、いまは理解できるような気がした。
 この人のことを大事にしたい──。誰よりも、彼女に対しては優しくありたい。もろく傷つきやすい華奢な身体を、いたわってやらなければと思う。ヨナの受けた傷は、何倍もの痛みをともなって、彼自身の傷になるのだから。
「靴、履かせてくれるの?」
 うん、と頷くとヨナがほんのりと頬を染めた。俯いて隠したつもりだろうが、青龍の眼にはお見通しだ。顔をのぞき込んでわけを訊くと、ヨナははにかんで笑った。こういうことは誰にもされたことがないのだという。
「ヨナ……歩き疲れてない?」
「大丈夫。シンアこそ、ずっと私のお守りで疲れないかしら?みんなのところに戻って、休んでもいいのよ」
 首を横に振る。疲れるわけがない、むしろ。
「ヨナの傍にいると……落ち着く」
 親鳥に甘えるように、隣に座って彼女にすり寄った。くっついているといっそう強くヨナの存在を感じることができる。ヨナはくすくすと笑って、シンアの広い背中を撫でてくれた。
 この少女の近くにいると、心が澄み渡っていくようだ。
「見て──。星が流れていくわ」
 ヨナが指さす先で、彗星がすっと夜空に尾を引いた。
 眼を凝らしてみても、天がどのような場所かはわからない。遥か彼方を見通す千里眼、いにしえの時代に青き龍から授かったというこの妙なる眼をもってしても、雲上に存在するだろう龍の住処を見いだすことはできない。
 いつか龍の還り着くところは、天だろうか。暗闇に閉じこもっていた頃、思いを馳せたことがあった。遥かな高みからいまもこの国を見おろしているだろう、青き龍。血を分けた存在のもとへ、いずれは引き上げられるのだろうか──。
 いまはそうは思わない。そうなりたい、とも思わない。
 この眼が光を失い、この身が朽ち果てたとしても、許されるのならこの人の傍にいたい。光差すその道行きに、どこまでもついてゆきたい。
 天になど還らなくていい。赤い髪をもつ彼女こそが、龍の還るところ。
「夜空はいつ見ても変わらないのね。──人は、こんなに変わってしまうのに」
 見るとヨナがはらはらと涙を落としていた。きっと、物思いに耽っているのだろう。月の光を浴びているとそうしたくなると、彼女は言っていた。
 シンアはかたわらで静かにその泣き声をきいている。
 流すままにしたほうがいい涙もある。とめどなくあふれ出してしまうのなら、無理にせき止めることはない。思いの限り泣いて、悲しいことは全部流しつくしてしまえばいい。いつまででもこうして傍にいるから。
 月の光に、言葉は要らない。ただ泣き濡れるその瞳を、小刻みにふるえる小さな肩を、優しく包み込むだけでいい。







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