暁のヨナ | ナノ


▼ 弓師匠 【ハクヨナ】


 弓に矢を番え、ぎりぎりまで弦を引き絞る。
 鏃を向けた先は、楡の大木の幹だ。射抜く的は、そのざらつく樹肌の丁度真ん中と定めている。
 木々の間を抜けて、さわさわと気紛れな夜風が吹く。
 だが、真摯に的を見据える弓使いの呼吸には、一糸の乱れもない。
「矢を射る時に大事なのは、『溜める』ことなんですよ」
 昼間耳にした、師匠の教えを頭の中で反芻する。
「狙いを定めたら、焦らないで。射る直前まで、これでもかってくらい、溜めるんです」
 きりきり、としなった弓が軋んだ音を立てる。夜風が頬をそっと撫でて、目の前を通り過ぎていく。青白い月光が冴え冴えと楡の木を照らし出した時、ーー今だ、と弓使いは覚悟を決めた。
 放たれた矢は、いっさいの迷いなく空を切り、月光にきらめくその鏃を的に突き立てた。
「ーーお見事」
 はっと振り返ると、宵闇の中から長身の男が姿を現すところだった。いつからそこで見ていたのだろうか、まるで気配が感じられなかったことにヨナは驚く。暗がりで彼の顔はよく見えないが、どこか満足げな様子でいることは窺い知れた。
「目覚ましい上達じゃないですか」
「やっと的に当たるようになったところだもの。ーーまだまだだわ」
「いや、大したもんですよ。ついこの間までは、弓を握れるかすら危うかったのに」
 大きな手で、くしゃりと頭を撫でられる。稽古をつけてもらっている師匠から褒められることは、素直に嬉しい。夜更けまで鍛練した甲斐があったというものだ。謙遜しながらも、ヨナは頬が緩むのを抑えられない。それを見たハクの表情も自然と和らぐ。
「よく頑張りましたね。姫さん」
 ねぎらいの言葉が、なんともこそばゆかった。
 かつて風の部族の若将軍だった彼が、訓練場で教鞭をとり、兵士達の稽古をつけているところをヨナは何度も目の当たりにしたことがある。手厳しいが、腕の確かなソン・ハク将軍の稽古は好評だったとみえ、訓練場で彼はいつも引っ張り凧だった。そんな彼をいまは彼女が独占している。皇女だとて甘やかしてくれることはないがーーあくまで彼女の見方では。
「ハクは戻って休んでて。私、もう少し練習するわ」
 ふう、と彼が溜息をつく。
「数打ちゃ当たるって言いますがね。やりすぎは身体に毒です」
 言い返そうとすると、ふと利き手を掴まれた。弦を引きすぎたために親指の付け根に血が滲んでいる。痛みはとうに麻痺していた。
「平気よ。これくらい、試練の一つにすぎないわ」
「……俺が全然平気じゃないんですよ」
「え?」
 彼は無言でヨナの手を握り締めた。しばらく温もりを分かち合い、解放された時、彼女の親指には木作りの指懸が填められていた。彼が手ずから彫ってくれたものだろう。ヨナの手に傷がつかないように。
「痛かったら、痛いと言ってくれ。ーー頼むから、こんなになるまで我慢しないでくれ」
 ヨナは目を細める。ハクが案外心配性らしいと知ったのは、城の外に出てからのことだ。
「大丈夫よ。これからは、きっともう痛くないから」
「……ならいいんです。あんたが怪我をしたらと思うと、俺は気が気じゃない」
 変わらない彼の心尽くしが胸に染み入る。
 城で平穏無事な生活を送っていた頃は、彼の献身にさも当然のように甘えていた。生意気な下僕などと憎まれ口をたたいたことを、ヨナは今になって後悔している。言葉を取り返せるのならそうしたい。そして礼を欠いたことを謝りたい。何もかも失った彼女に、唯一残されたものが彼だったのだから。
「私だって、お前が怪我をすることは、耐えられないわ」
 なればこそ皇女は弓をとる。
 ハクという何にも代えがたい宝を守るために。
 彼こそが、彼女の持てる全て。
 もう二度と、決して無碍にはしない。





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