暁のヨナ | ナノ


▼ 紅鬢雪顔 【ハクヨナ+腹へり】


 山麓からの道すがら、一行が人里に至ると中心を通る往来では定期市が開かれており、見渡す限りが賑わいの様相を呈していた。
 聞けばここは辺境の田舎町で、人の数も土地の広さもそれなりに恵まれているものの、四方を山岳に囲まれているためにある種の孤立状態にあり、物資に何かと事欠くことが多い。そのため二月に一度ほどこのように外から商団がやって来て、市を開き、内々では手に入らない品物などを売買するのだという。
「こんな山間の里に住んでいれば、不自由が多いだろうからね。きっと四季を通じて天候の変化が激しいだろうな。そうなると栽培できる食材なんかも限られてくるだろうし、あれだけ皆が買い込んでることにも頷けるよ」
 背負子や天秤棒で得物を重たそうに担ぎ、汗をかいたりよろけたりしながら運ぶのに難儀している買い物客達が通りすぎていくのを、ユンは興味深そうに眺めている。彼に付き従う一行は、往来の両脇に所狭しと立ち並ぶ様々な肆【みせ】からの誘惑に心まどわされそうになりながらも、遅れをとらないように歩みを進めていく。出納係のユンがしかと財布の紐を締めたままなのだから、どれほど購買欲に駆られようとひやかしに留めるほかない。つねに節制を強いられる流浪の身としては、道草を食って散財するわけにもいかないというユンの選択は、確かに賢明だった。
 ハクはふと横目に流し見、反対側の並びに鍛冶屋があるのをみとめた。武器を買うような余裕はないが、打ちたての研ぎ澄まされた刃物などを目にすると、否応なしに軍人としての血が騒ぐ。通りすぎざまに名残惜しく見送ると、その隣には小さな画肆があった。花鳥画に山水画、吉祥画に肖像画など、腕利きの畫師が手掛けたであろう、色彩豊かな絵が十数点ほど肆先に並べられている。
 興味をなくして視線を逸らしかけた彼だったが、不意にある一作に釘付けになった。数ある名画のなかで、その一点だけがまばゆいほどに光彩を放って見えた。まるで心臓を強靭な力で鷲掴みにされたかのように、たかが肖像画の一枚に魅入られるあまり、彼は呼吸の仕方さえ忘れていた。
 仲間達はどんどん先を行くが、立ち止まったままのハクの眼差しはただ一点に向けられている。知らぬ存ぜぬで通り過ぎることなど、到底できそうになかった。根の生えたような足を叱咤し、行き交う人々の間を縫ってその画肆に近付いていく。何やら筆を動かしていたらしい店番の青年が顔を上げ、穏やかに笑いかけてきた。
「いらっしゃいませ。どのような絵を御所望でしょうか?」
 物腰柔らかな美男子だった。手にしていた筆を置き、立ち上がる一連の所作は優雅なもので、簡素な身なりにそぐわず、どことなく都育ちを思わせた。辺鄙な田舎町では滅多にお目にかかることのない上玉だろう。色めき立った娘達がちらちらと様子を窺っているのが背中越しに感じられる。もっともハク自身の優れた容貌もまた、このように人目を引いている一因なのだが、本人にはまるで自覚がない。
 ハクは並べられた絵の中の一枚に、否応なしに視線を引き寄せられる。青年がその眼差しを辿り、客の御眼鏡に適った絵をみとめる。次に彼の思い焦がれるような瞳を見て、そっと目を細めた。
「あなたはお目が高くていらっしゃる。ーーこの美人画は、私の最高傑作なのです」
 弾かれたようにハクは顔を上げる。
「これは、あんたが描いた絵なのか」
「僭越ながら、その通りです」
 何時、何処で何故この人を見たのか、と堰切ったように訊ねたくなる衝動をハクは懸命に押しとどめた。この「美人画」の題材となった少女に対する執心を剥き出しにし、見ず知らずの相手から怪しまれては元も子もない。
「ーー画題はあるのか」
「『紅鬢雪顔』」
 若き天才畫師は唇の端をゆるやかに持ち上げ、答えた。
「数年ほど前、私が王都にてお目にかかった、ある舞姫の姿を描いたものです。一度きりの邂逅でしたが、私にとっては忘れ得ぬ女人です。目の冴えるような赤い髪に、雪よりも白い肌をした、大変美しく高貴な御方でした」
 ハクの瞳が揺れる。胡蝶や大輪の花に愛でられ、金襴緞子を身に纏い、美しくあでやかに描かれた舞姫の絵姿は、言われてみれば確かに、よく見知った姿よりも幾年か幼いように見えた。憂いや血腥さなどといった不吉の影とはまるで無縁な、あどけないばかりの表情。それは愛らしく、また今となっては痛ましくもあり、その舞姫に全てを捧げてきた彼の胸を掻き乱すのだった。
 畫師は美人画に注がれる彼の一途な眼差しに、ほだされたのかもしれない。あるいは舞姫にとらわれるその姿に、自分の姿を重ね合わせたのかーー。その絵から離れることも、触れることもできずにいるハクの顔から視線をそらし、追憶に思いを馳せるように遠い目をして、閉ざした口を再び開いた。
「私の家系は、代々宮廷畫師を務めてまいりました。数年ほど前までは、父がその役目を。私も時折見習い画員として緋龍城に通い、図画院にて学びました。『紅鬢雪顔』を描いたのは、それが父の出した課題だったためです」
 ハクは表情こそ変わらぬものの、内心肝が冷える思いだった。この青年が「舞姫」の顔を見知っているだけでなく、かつて城に出入りしていたとは盲点だった。だがどうやら、風の部族の若将軍であったソン・ハクの容貌を知っているような様子ではない。よくよく考えてみれば、緋龍城は数えきれぬほどの官吏や女官を召し抱えているのだ。時折出入りする程度では、顔を合わせたためしもなかっただろうし、もし万が一にも擦れ違っていたことがあったにしても、顔を覚えていようはずもなかった。
 みずからが描いた美人画を手に取り、畫師がそっと溜息をこぼす。それは恋に悩める男の様子にも似ており、やはりハクの存在など気にも留めていないようであった。
「宮廷畫師たるもの、一目にして対象物を脳裏に焼き付け、正確に描き出さなければなりません。私は庭園に通され、あの御方が舞の手解きを受けておられるのを目の当たりにし、すぐさま図画院に戻りました。ーー私は傲慢でした。自分の才能にうぬぼれていたのです。あの美しい姫君を、完璧に描ける自信がありました。ですが、私にはそれができなかった。どれほど躍起になり、高価な色墨を磨っても、あの舞姫の御髪の、あの鮮やかな緋色を出すには至りませんでした。思い悩み、しばし描くことから離れ、やがて私は悟ったのです。あの御髪は天からの授かり物であり、常人の筆で描くことなどできないのだということを」
 畫師はその絵をしばらく名残惜しそうに眺めた後、顔を上げて、無言でハクの方に差し出してきた。どういうことかと眼差しで問うハクに、肩を竦めて静かに笑う。
「あなたにお譲りしましょう」
「生憎、持ち合わせがないんでね」
「お気になさらず。喉から手が出るほど欲しい、という目をなさっていますよ」
 ハクは眉をひそめる。意地でも受け取ってなるものかと思ったが、なかば押し付けられるような形でその絵を手にすることになった。畫師はというと、椅子に座り直して再び筆を取っている。身を乗り出してその手元を覗きこむと、どうやら飛龍を描いているようだった。吉祥画だろうか。
「父は世を去りましたが、私は跡を継がずにこのように修業の旅を続けています。いずれ王都に戻るつもりでしたが、今はもうあちらには未練も愛着もありません。ーーあの御方のいらっしゃらぬ緋龍城など、太陽の昇らない暁に等しい」
 しばらく迷ったものの、ハクはもらい受けた絵を丁寧に丸めて懐にしまった。畫師はそれを見届けると、手元に視線を戻し、完成した画龍にそっと睛【ひとみ】を点し入れた。
「その美人画は、いわば偶像。まぎれもなく、それは私の最高傑作です。ですが神の偶像を描いたところで、神は決して人の手には入りません。ーー思うにあの舞姫も、きっとそのような御方なのでしょう」

 夕刻になると雨が降ってきた。本降りとなる前に市は早々と撤収し、あっという間に往来は閑散とした。一行はこの悪天候下も野宿は避けられないものと覚悟していたが、出納係が「背に腹は代えられないな」などとぼやきながらもかたい財布の紐を緩めてくれたおかげで、今夜は雨露をしのぐ宿をとることができた。万々歳である。
「だってしょうがないじゃん。ヨナも珍獣どもも、雨に濡れたらすぐに風邪ひいちゃうでしょ?結局俺が治さなきゃならないんだったら、最初から予防しといた方が合理的だしね」
 感極まったヨナとゼノに抱き着かれたユンが、頬を赤らめながらもっともらしいことを言う。二人とも、人目も気にせず人懐っこい猫のようにじゃれてくるものだから、年嵩に囲まれながらも最も大人びている彼がはじらうのも無理からぬことだった。
 ぴったりとくっついて廊下を歩く三人を後目に、雨に濡れた髪から滴をしたたらせてジェハがくす、と笑う。
「お子様達は相変わらず仲良しだね。結構、結構。まあ、ゼノ君は中身はれっきとしたおっさんなわけだけど」
 生真面目なキジャがささやかな冗談を聞き咎め、柳眉を逆立てた。
「ジェハ、ゼノは我ら四龍の年長者なのだぞ。目上の者に対して少しは言葉を慎まぬか」
「ったく、白蛇は相変わらず頭が固いな。脱皮でもすれば少しは柔らかくなるかもしれないぜ?」
「だからっ、白蛇ではないと何度も申しておろう、そなたの耳は役立たずか!」
「おーすいませんね、蛇の言葉なんてものは存じ上げないんですよねえ」
 やれやれ。お決まりのいがみ合いからさりげなく距離を置き、黙って後ろをついてくるシンアを振り返るジェハ。
「ヨナちゃん達、微笑ましいね。年甲斐もなく交ぜてもらいたくなっちゃうよね?シンア君」
 シンアはヨナが貸してくれた手巾で、手のひらに乗せた馴染みのリスの頭を甲斐甲斐しく拭いてやっている。仮面の奥の眼がジェハを見ているのか否かも定かではない。寡黙なこの青年と意思疏通を図ることは至難の業だ。ジェハは肩を竦め、前を行く赤い髪の少女の後ろ姿を眺めた。浮かれた足取りに我知らず目を細める。少しばかり早足で歩いて、隣に追い付くと、華奢な肩に手を回した。
「お兄さんも交ーぜて」
「デカいのはこれ以上交ざらなくていいから!」
「つれないこと言うね、ユン君は」
「ボウズ、本当は嬉しいんだぜ。ゼノはちゃんと解ってるからー」
 したり顔で頷くゼノに頭をくしゃくしゃに撫でられたユンは、ますます顔を紅潮させて「美少年の髪が鳥の巣になっちゃうじゃん!」などと抗議している。玉を転がすような声で笑っていたヨナが、ふとジェハを見上げた。
「そういえば、さっきハクが遅れてきたわよね。一体どこの肆に寄っていたのかしら?」
「そうだね。見失う前にちらっと見た限りでは、通り向かいの鍛治屋を物欲しそうに眺めてたみたいだったけど」
「いい武器があったのかしら?」
「さあね。彼は戦闘馬鹿だから」
 ジェハの後頭部に何やら硬いものが振り落とされた。ハクの愛刀である。脳震盪を起こしそうになりながらジェハは背後を振り返る。雷獣の三白眼がじっとりと見据えていた。
「おいタレ目、誰が戦闘馬鹿だって?」
「今のは頭が割れるかと思ったよ。ハクは地獄耳なんだねえ……」

 一行の部屋は二階にあった。どうやら全員が雑魚寝できる程度の広さはあるようだ。荷をおろすと、雨風で冷えた身体を温めるために湯殿へ向かった。番台のところで男衆とヨナはわかれる。
 突然の雨でさぞ賑わっていることだろうと思われたが、この宿は町はずれにあるせいか、さほど宿泊客は居ないようだ。人目につくと何かと厄介事が多い一行にとっては好都合である。先にユンとゼノが浴場の様子を窺い、人がいないことを確認してキジャとジェハを呼び寄せた。異形の身体を持つ二人が気兼ねなく寛げるよう、あえて夕食時をねらったことが幸いしたようだ。
「沐浴はよいな。身も心も洗い清められるようだ」
 キジャが心地良さそうにしている傍らで、またもハクがぼそりと一言。
「あんまり湯に浸かりすぎてふやけるなよ、白蛇。脱皮なら頼むから外でやってくれ」
 不穏な空気をいち早く察したジェハが、愛想笑いを浮かべながら「まあまあ」と仲立ちに入る。
「ところでハク、ヨナちゃんが訊いてきたんだけど、さっきはどうしてあんなに遅れてきたんだい?」
 今にも白龍の手を振りかざそうとするキジャに臨戦態勢をとっていたハクが、はっと目を見開いた。まるでやましいことが見つかったような顔だ。おや、とジェハは片眉を吊り上げる。
「ーー鍛治屋を見ていた。それだけだ」
 憮然として吐き捨てるハク。これ以上訊くなという拒絶がありありと窺えるが、そうは問屋が下ろさない。さらに追及しようと口を開きかけたジェハを、だが意外な男がさえぎった。
「……ハク、さっきは武器じゃなくて、絵を見てた」
「絵、だって?ハクがかい?」
「うん。……多分、女の子の絵だったと思う」
 沈黙が場を支配する。千里眼を持つ仮面男は頭に手拭いをのせて、大人しく湯に浸かっている。俗なことにはまるで縁のない純真な青年だ。今の発言が男衆の想像にどのような一石を投じたかなど、知る由もないだろう。
 ジェハがにやけ笑いを懸命に堪えながら、うんうんと頷いた。
「なるほどね、そうかそうか、他人に見られてはまずい絵を見ていたってわけか」
「それも、どこぞのお嬢さんの絵だって。どんな別嬪なんだか、ゼノ気になるなあ」
「ふうん。雷獣も一応、男だったんだ」
「……お前ら、何か誤解してるだろ?」
 ジェハ、ゼノ、ユンの好奇に満ちた眼差しを、首を振って薙ぎはらうハク。鬱陶しいことこのうえない。
 そうした空気の中、青龍と同様に無垢な心を持つ青年が、なごやかに見当違いなことをいう。
「おなごの絵とは微笑ましいではないか。私も里にいた時は、誕生日を迎えるたびに肖像画を描かせたものだ」
 三人が顔を見合わせる。これだから深窓のお坊っちゃんは、といわんばかりに溜息をつく。
「キジャ君、僕達が話してるのは、ただの肖像画のことなんかじゃなくてね」
「そうなのか。では、どのような絵なのだ?」
「つまりね、いわゆる『春画』というものなんだよ」
「……シュンガ?」
 聞き覚えのない言葉に、揃って首を傾げるシンアとキジャ。何やら意味深な笑みを浮かべるジェハに手招きされ、その「春画」なるものの正体を耳打ちされる。途端に二人とも茹で蛸のように真っ赤になった。
「ハク、そなた、姫様にお仕えする身でありながら、そのようにみだらなものをーー!」
「そいつらに余計なこと教えるなよ、変態タレ目!」
 濡れた前髪を苛立ち混じりにかきあげてハクは立ち上がる。このままここにいては格好の餌だ、たまったものではない。
 だが、ここで食い下がる緑龍ではなかった。切れ長の目をさらに細めて、静かに牙を剥く。
「やましいことがないっていうなら、その絵を見せてくれてもいいんじゃない?」
「ふん、お前なんぞに渡してたまるか」
「ーーその口ぶりから察するに、ハク、君はその絵を持っているんだね?」
 これだからこの男は厄介なのだ。いつも先回りして、都合の悪いことを彼の口から引きずり出そうとする。年の功というものだろうか。とにかく、なんとも面倒な仲間を得たものだ。
 踵を返すが早いか、ハクは一目散に駆け出した。背後で誰かが素早く湯から上がる音がした。「捕まえろ!」誰かが声を張り上げる。出口まで目前というところで誰かが後ろからがっちりと腰に抱き着いてきた。勢いあまって前のめりに倒れそうになる。どうにか踏みとどまり憤然と振り返ると、泡だらけの黄龍が屈託なく笑っていた。
「放せ、ゼノ!」
「兄ちゃん、覚えとけ。逃げられると追いたくなるのが人の性ってもんだぜ?」
 ジェハがひらりと彼らの頭上を飛び越え、更衣室にはいった。ハクの衣装を探し当てるのにそう時間はかからない。口笛を吹きながらもったいつけて戻ってくる。筒状に丸められたままの美人画は、緑龍の脚を持つその性悪男の手中にあった。
「さあハク、どうする?この絵を僕らに見せるか、それとも、ヨナちゃんに見せるかい?」
 このいけすかない男に見られるのは心底腹立たしいが、ヨナの目に触れることはもっと耐えられない。こんなものを大事に懐に抱えていたことが知れたら、一体どんな顔を見ることになるやらーー。
「返せ、タレ目」
「往生際が悪いね。選択肢は二つに一つだよ」
 いつまでその絵を我が物顔で握り締めているつもりだ。いつになったら手放すのだ。人の手で気安く触れていいものではないというのにーー。
 これほどに心を掻き乱されるのは、独占欲に駆られているせいなのだ。奪われることが堪え難いのは、浅ましくも、自分だけのものであって欲しいと願うからなのだ。そのことにはたと気付いた瞬間、彼の中で沸々と煮えていた怒りは頂点に達した。
「返せ!ーーその絵は、俺のものだっ!」
 ゼノの縛めを振り切り、飛びかかった。驚いたジェハの手から、その美人画はまるでみずから飛び立つかのように離れていった。ハクは息をのむことしかできなかった。喉から手が出るほど欲したものが、中空でゆるやかに弧を描き、音も立てずに湯の上に落ちる。
 沈みかけているのを拾い上げて、慎重にひろげてみた。その美人画は色墨がすっかり滲んでおり、もはや何の絵かわからない代物と成り果てていた。恐る恐るといった様子で仲間達が覗き込んでくる。舞姫は消えてしまった。もう隠す必要もない。これに懲りて、やれ春画だの艶画だのと彼らが囃し立ててくることもなくなるだろう。
 ハクは無言で再び湯に浸かる。灯籠の仄かな明かりに濡れた美人画を透かしてみるが、やはりあの舞姫の姿は浮かび上がってはこない。喪失感は、確かにあった。二度と再びあの愛らしい姿を見ることは叶わないのだ。もっと目に焼き付けておけば良かった、と悔やまれてならない。ーーだがその反面、なぜか心の底から安堵している自分がいた。『紅鬢雪顔』のたおやかな舞姫は、もう誰の目に触れることもない。失われたその絵姿は、ただ彼の記憶に留まるのみ。
「ーー俺のもの、か」
 言ってみたいものだ。紙に描かれた偶像ではなく、面と向かってその人に。それはきっと飛龍の鬣をつかむような話だろうが。空想に罰は下るまい、と開き直る彼の唇に淡い笑みがさした。

 静かな雨垂れの音が耳に心地よい。丸窓の飾り細工の隙間から外の景色を眺めながら、ヨナは手ぬぐいで濡れ髪を拭いている。
「あんまり窓辺にいると、湯冷めしますよ」
 白磁の徳利と猪口を片手にハクが部屋に入ってきた。長身を屈めて天井から下がる赤提灯にぶつからないようにしながら、ヨナのかたわらに腰をおろす。
「皆はまだ下にいるの?」
「ええ、まあ。罪滅ぼしのつもりでしょうね」
「何?」
「いえ、こっちの話ですよ」
 男衆は湯殿での一件でハクの腸が煮えくり返っているものと思い、腫れ物にさわるようにやけに親切を焼きたがる。夕食の席では甲斐甲斐しく料理や酒など譲ってきた。気味が悪いことこのうえないが、都合がいいのであえて遠慮させたままにしておいている。先程も部屋にもどるハクに気を遣ったらしく、誰一人としてついてくるとは言わなかった。大切なお姫様と二人きりになる機会を与えれば、腹の虫が少しは治まると読んだのだろう。
 上機嫌に徳利を傾けようとすると、ヨナがじっと見ていた。
「どうしました?」
「たまにはお酌、してあげようかと思って」
「へえ、姫さんの手酌で呑めるとはね。今夜は簡単に酔っちまいそうだ」
 顔が見たい。指先で顎を持ち上げてやれば、ほんのりと桜色に染まる頬。
「またそういう冗談。ーーほら、それちょうだい」
 差し出された手は、その手に委ねる白磁の徳利よりも白い。あの美人画に描かれた舞姫は、傷一つない玉のような手をしていた。肌の白さこそ陰りないが、今はその手のところどころに切り傷などができていて、やや痛ましい。かつては大輪の花や宝石や舞扇子、美しいものにばかり触れていた手が、今は女だてらに弓矢や剣など物騒なものを握っている。
「これは何というお酒?」
「焼酎です。旨いですよ。酒気が強いんで、姫さんには呑ませられませんがね」
「もう。いつまでも子供扱いね、ハクったら」
 子供などとは思っていない。十六と言えばもう嫁いでもおかしくはない年頃だ。事実、あの絵の舞姫よりも、目の前で徳利を捧げ持つ彼女は随分と大人びて見える。非難がましく彼を見上げるその顔の中で、とがらせた唇がやけに目についてしまう。ーー触れてみたいと思う。
「遊牧民が嗜む酒に、馬乳酒ってもんがあるらしいですよ。あれなら甘くて口当たりがいいみたいだし、子供も好むというから、姫さんでも呑めるかもしれないな」
 動揺を誤魔化すために杯を重ねる。しだいに酔いが回ってくる。酒豪のムンドクに早いうちから嫌というほど酒の味を仕込まれたはずなのだが、今夜ほど舌先に忘れがたい酒は味わったことがない。きっと彼女が酌をしているからだ。ヨナの手によって注がれる酒は、甘露のようだ。
 何杯目とも知れぬ酒を呻る。やにわに頭が重くなり、猪口を落としてしまった。心配そうな顔をしたヨナの手のひらが、火照りを帯びた頬にそっと添えられる。
「ハク、もしかして酔ってるの?」
「いえ、大丈夫。酔ってなんかいませんよ、お姫様」
「嘘。ーーさっきから、ずっと、熱心に私のことを見てるんだもの」
 離れていこうとする手をとらえる。はずみで徳利を落としてしまい、ヨナが目を伏せた。掴んだ手首が痛くないように、ハクは力を緩める。その唇に触れたい、という思いを遂げる代わりに、自分の唇に乗せたものはお決まりの呼び名。万感の思いを籠めたその呼び声は、まるで恋人に向けられたもののように甘く、情深いものだった。
「……何?」
「お姫様」
「だから、どうしたの?」
「ーーヨナ姫様」
 赤い御髪に雪のようなかんばせ。それらを目の当たりにして彼の心はこの上ない喜びに満たされる。目の前にいるこの御方は決して、偶像などではないのだ。貧しい市井に紛れていようと、砂塵の荒ぶ戦場にあろうと、目映いほどに光彩を放つ。
 何故ならこの御方は、生まれながらの皇女だから。
 この高華国において、もっとも気高く美しい、王の娘なのだから。
「俺があなたを見ていなかったことが、今までに一度だってありましたか?」






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