暁のヨナ | ナノ


▼ 高楼夢 【ハクヨナ+四龍/未来】

 赤い城の楼門から、遥か遠い空に明けの明星が輝くのが見えた。しだいに深い眠りから揺り起こされつつある城下町を、静かな眼差しで眺める貴人の姿がそこにはある。
 彼女が本懐を遂げ、王国を平定してから早幾年。稀代の英雄と称えられ、万民の尊敬を一身に集める主の姿を、四龍の戦士達はいまも傍で見守っている。
「見事な夜明けの空だ。ちょっと地平線のあたりまでひとっ跳びして、日の出を拝みに行きたくなるね」
 緑龍の感慨深げなつぶやきに、白龍が苦笑する。
「ジェハ、そなた、もう前のように跳ぶことはできまい?」
「緑龍の能力は失っても、僕はまだ脚力に絶対的な自信をもっているよ。それにキジャ君、君の右手こそ、いまだ怪力が衰えを知らないじゃないか」
「だよなあ。白龍のやつ、この前、王子と王女を片腕で抱え上げて、懸命にお守りしてたもん。危なっかしくて、兄ちゃんがはらはらしてたから」
 高欄に腰掛けた黄龍がけらけらと腹を抱える。見ていたのかゼノ、とキジャは顔を赤らめた。
「あれはだな、王子様と王女様の腕白が過ぎるゆえ、致し方なかったのだ。まったく、お二人とも、よりによってハクに似てしまわれるとは──」
「うふふ。ごめんね、キジャ。多分それ、私に似たせいでもあるわ」
 暁の髪を靡かせて振り返ったヨナに、にっこりと笑いかけられる。妻となり、母となった今もなお、その笑顔は若々しく愛くるしいままだ。白皙の彼の頬は、熱気でのぼせ上がったかのようにさらに紅潮した。
「い、いえ、滅相もございません!母君である姫様によく似て、王子様も王女様もたいそうお美しく、気品にあふれ、聡明であらせられ……」
「あいかわらず、君は姫様呼びがやめられないんだね、キジャ君」
「そういうそなたこそ、畏れ多くも馴れ馴れしい呼び名を改めておらぬではないか?ジェハ」
「まあまあ、いいじゃんか!仲間内なんだから、呼び方なんて気にしない、気にしない。な?お前もそう思うだろ、青龍」
 ゼノに同意を求められ、ヨナの隣におとなしく控えていたシンアが静かに頷いた。
「ヨナは……ヨナのまま。誰にどう呼ばれても……変わらない。……ヨナは、ずっと、俺達のヨナのままだから」
 俺達のヨナ、という表現が、自分で言っておきながら思いの外こそばゆかったらしい。居たたまれなくなったのか、仮面で隠れた顔を、シンアは両手でさらに覆ってしまった。
 ──四龍の戦士が、いにしえの時代から継承されてきた龍の血の能力を失って、すでに久しい。
 ヨナが王国を平定した時のことである。神官イクスを祭司とし、ゼノがかつて主君から賜った龍紋を拝借して、緋龍城にてヨナは祭儀を執り行った。
 天にまします龍神に祈りを捧げ、四龍の戦士を常人に戻してもらうために──。
 武器を取り、戦わなければならない時代はもう終わった。人の手に余る神の力は、今こそ天に返上するべきだと彼女は悟ったのだ。
 キジャは破壊の力を宿す龍の手を、シンアは彼方までも見通す眼を、ジェハは天高く跳躍する足を、ゼノは傷つくことのない鋼の身体を、失うことになった。幾千年に及ぶ龍の血の盟約から解き放たれ、彼らは晴れて自由の身となったのである。
 だが、四龍のうちの誰一人として、ヨナのもとを去ることはなかった。無論ヨナが命じたわけではなく、これは彼らの意志にもとづく選択だ。まるで、彼女と四龍との絆は、決して龍の血の古びた盟約によってもたらされたものなどではなく、心が結びついて生まれたものなのだということを、いと高き所にいる神々に証明してみせるかのように。
「ああ、本当に、長かったわ。──あっという間だったような気も、するのだけれど」
 ヨナは目の前に広がる景色を抱き寄せるかのように──あるいは天高く飛ぶ鳥のように、両の腕を大きく広げた。穏やかな眼差しは、遥か遠くに向けられている。
 傍らでシンアは、その瞳を見つめている。そうしていることが好きで、気が付けばいつも彼女の隣にいた。──ヨナは知っているだろうか?いや、おそらく知らないだろう。青龍の眼などよりも、彼女の瞳のほうがずっと、遥か彼方を見渡しているのだということを。
「時は流れるでしょう。──緋龍王や四龍の生きた過去が、私達に、神話として語り継がれてきたように。いつか私やあなた達の存在も、遠い過去になる。幾百年、幾千年の時を経て、信じるに足らない伝説でしかなくなるのかもしれない。あるいは、忘れ去られていくのかもしれないわ」
 ──それでいいの。それが、歴史というものだから。
 覇王の名にはあまりにも似つかわしくないその美しいかんばせに、夜明けの光が燦然と降りそそぐ。四龍がいつまでも心惹かれてやまない、──暁の星。
「もし、まだあなた達が私の我儘を聞いてくれるというのなら。私と一緒に、この国を見守ってほしい。命尽きるその時まで、こうして皆で一緒に。──ゼノはもう十分すぎるくらい、見てきたかもれないけれど」
 ふふ、とゼノが大人びた笑い方をする。酸いも甘いも噛み分けた、それは全てを受け容れることを知る者の微笑だった。
「そんなことないよ。娘さんのお陰で、ようやくまともな人間に戻れたんだ。ゆっくり、のんびり、年を取ってさ。可愛い娘さんの我儘に気長に付き合うのも、悪くはないと思う」
「はは。なんだかんだで、ゼノ君は一番長生きしそうだよね」
「ジェハ、そなたは生き急ぐでないぞ?そなたは年上なのだから、シンアのよき手本とならねばならぬ」
「……俺、ハクを見習うから、いい」
「シンア君、君ってたまに結構傷つくことを言うよね……」
 ヨナは四龍の兄弟を振り返る。優しく穏やかな面差しに、慈愛が満ちあふれている。なぜだろう。四龍はわけもわからず、胸を鷲掴みされたような気分を味わう。──彼女がこの空の下に居てさえくれれば、他に望むものは何もなかった。
「私はこの国の母になりたい。母として、この国を育て、心のかぎり慈しんで、いずれは子ども達の手にゆだねたい」
 高らかに、華やかに栄える国。この高華国は、この王国は、確かにかつて神の力によって創られた国かもしれない。だがそれを花咲かせたのは、そしてこれからも咲かせ続けてゆかなければならないのは、非力で、けれど緋き龍が心の底から愛してやまなかった、人間なのだ。
「あ、……そうか」
 唐突に、ヨナは、この国の始祖が、どれほど人間に虐げられようと、人間を愛せずにはいられなかったという理由を理解した、と思った。
 彼は人間だった。天龍が地上に下り、仮初めの姿として人になったなどという事実は、重要ではない。緋龍王自らが、彼は人間だと言った。自分が何者かを決めるのは、つねに自分自身だ。だから彼はまぎれもなく、人間だった。
 ヨナもまた、たとえその身に神の血が流れていようと、緋龍の再来だと万民に崇め讃えられようと、自分は決して大それた存在などではなく、私もあなた方と同じ、ただの人間なのだ──と言い張るだろう。
 人間は人間を慈しむ。誰かに、傍にいてほしいと願う。なぜなら、人間は一人きりでは生きてはゆけないから。支え合い、愛し合う生き物だから。
 おそらく緋龍王も、そのことを知っていたのだろう。
 ──人の手によってのみ、人は生かされるということを。

「御機嫌よう。──皆さん、仲良くお集まりのようで?」
 楼門を登ってきたのは、かつて雷獣の異名を馳せた男。夜着のままで、寝癖もそのままといった有様からみるに、あわてて寝所を飛び出してきたらしい。
 ヨナは咄嗟に、長身のシンアの背に隠れた。黙って寝所から抜け出してきたのだ。きっと、こってり油を絞られるだろう。
「まったく。夫を閨に置き去りにして、寂しく独り寝させておいて、どこをほっつき歩いてるのかと思えば……」
「えっと、その……む、夢遊病なのよ。そう、そうなの。気付いたら、ここにいたわ。仕方がないでしょう?」
「はあ?夢遊病ですって?」
 胡散臭そうな目をするハク。ヨナは助けを求めるようにちらりとキジャを一瞥した。キジャはおろおろと四龍の兄弟達を見回すが、皆そろそろとあさっての方を見ていて、誰も助けてくれそうにない。
「ハ、ハク!姫様をあまり困らせるでない。姫様は、その、夢遊病ゆえ、致し方なく──」
「ほう。この俺ですら知らないことを、なんだって、白蛇様が知ったように語りやがるんですかねぇ……?」
 どうやら火に油を注いでしまったらしい。四龍の兄弟は冷や汗を流した。揃いも揃って常人となったいま、おそらく力で雷獣にかなう者はいないだろう。
「キジャは何も悪くないのよ!ハク、だから喧嘩はやめて──」
 たまらずにヨナがシンアの背から飛び出した。ハクはすっかりむつけた顔をしていたが、それでも妻が目の前に姿を見せたことで幾分か機嫌が良くなったらしい。眉間の皺がやや和らいだようで、四龍はほっと胸をなで下ろした。
「あなたがいつまでもお転婆なお姫様のままでは、王子や王女に示しがつかんでしょうが」
「わ、分かってるわよ!ハクったら、いちいち説教臭いんだから」
「お転婆が直るまでは、何度でも口酸っぱく説教してやりますよ、『お姫様』。──ああ、ついでに、夢遊病も治して御覧に入れましょうか?」
 仮病に治すも何もない。ヨナは「どうやって?」と何気なく聞いてみるが、言い訳を繕ったことをすぐに後悔することになる。
「なあに、簡単な治療法ですよ。ユンの知恵を借りるまででもない。──お転婆なお姫様が、夜中に目覚めたりしないようにすればいいだけのこと」
 くくく、となにやら不敵に笑うハク。こういう笑い方をする時の彼は、十中八九、底意地の悪い暗黒龍の性が頭をもたげている。嫌な予感がしたヨナはシンアの背後という安全地帯に戻ろうとするが、踵を返しかけたところを腰にがっちりと腕を回され、あっという間に抱き上げられた。
「は、離しなさい!」
「何恥ずかしがってんですか、今更。ゆうべだって、あんなに寝台で──」
「やめなさいったら!──もうっ、意地悪は嫌いよ!」
 四龍がいるのにお構いなしか。ヨナはどうにか抵抗を試みるが、所詮無駄な足掻きでしかない。俵のように抱えられ、楼門を下りていくしかなかった。
「意地悪だなんて心外だ。それに、嫌いって言葉はさすがに堪えますね。──お詫びに、たっぷりと、かわいがって差し上げますよ。泥のように、姫様が明日の朝まで眠りにつけるようにね」
 楼門の上で途方に暮れる四龍には、なにやら主の声にならない悲鳴が聞こえたような気がするが──。こればかりは、助けに馳せ参じることは、ままならなかったようである。








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