暁のヨナ | ナノ


▼ 高嶺 【ハクヨナ】


 切り立った岩の上から足元を見下ろすと、恐怖に身体がすくみそうになる。ここから崖の下までどのくらいの高さがあるのか、ヨナには見当もつかない。
「姫さん、あんまり近づくと危ないぜ」
 身震いする彼女の肩に手を添え、ハクが安全な場所まで戻そうとする。だがヨナは恐れをなしながらも、何かに魅入られたようにその場から離れようとしない。突風が吹けば足元を滑らせてしまうかもしれない。なのに聞き分けてくれない。ハクの声にやや焦りの色が滲む。
「タレ目の野郎が戻ってきたらすぐ運んでくれますから。大人しくしていてくださいよ」
「ジェハはすごいわ。こんな高さを飛び越えられるなんて」
 ヨナの目が爛々と輝いている。人の気も知らないで、と嫌みの一つもぶつけてやろうかと思うハクの耳に、熱に浮かされたような彼女の声が入ってきた。
「こんなことを言ったら、お前に笑われるかもしれない。でも私ね、時々、空を飛んでみたいと思うことがあるの。できなくもないような気がするのよ。どうしてかしら、あの雲の上にだって行けるような気がする。ーー不思議よね?阿波の雲隠れ岬でも、今この崖にいても、高いところは怖くてたまらないはずなのに」
 むしろ恐れをなしたのは、彼の方だった。何物にも替えがたい宝物が、今にもこの手をすり抜けていこうとするようで、なんとも心許ない。拠り所を求めて、小さな身体を胸に掻き抱く。
「ハク?」
 突飛な行動をとっても、前ほど大袈裟に動揺したり拒絶されることはなくなった。今もヨナは優しく名を呼んだきり、大人しく彼の腕の中に収まっている。その馴れに甘えて、ハクはより一層強く彼女を抱き締めた。炎のように赤い髪が彼の鼻先をくすぐり、太陽を浴びた匂いがする。
 いつかゼノの言った通り、このお姫様が緋龍王の生まれ変わりなのだとしたら、彼女が空や天に焦がれるのは、飛翔を常とする龍の性ゆえだろうか。本懐を遂げた暁には、やがて地上を離れ、魂の故郷である天に還ろうというのか。これほどまでに離しがたい人を、天が否応なしに奪い取っていくというのか。
「お姫様ほど不器用な方が、空を飛ぼうだなんて、無茶なことを」
「あら。風に煽られると、火はますます強く燃え上がるものなのよ?」
「ふん。なら、もっと別のことで煽ってやりますよ」
「望むところだわ」
 ヨナは鶴のように首を伸ばし、ハクの額に唇を押し当てた。不意打ちの仕掛けに目を眩ます彼に、挑むような目をして笑う。
「さあ、やれるものならやってごらん?」
「ーーそういう姫さん、嫌いじゃないですよ」
「天の邪鬼。素直に好きだと言えばいいのに」
 可愛い顔をして、可愛くないことを言う。彼女いわく、近頃は努めて彼の真似をしているそうだが、自分の方が余程可愛いげがあるし真に迫っているだろうと思う。彼の場合は戯れなどではなく、いついかなる時でも本気なのだから。仕返しをしてやろうと顔を近づけると、ヨナは笑いながらひらりとハクの腕をすり抜けた。悪知恵の働くお姫様は、今度は笑顔であしらうことを覚えたらしい。
「そろそろジェハが戻ってくる頃ね。あ!ほら、あそこで手を振ってる」
 ハクは溜息をつく。暢気に崖の向こうに手など振り返しているお姫様が恨めしい。雷獣の名にふさわしく、一度その柔肌に噛み付いてみてやろうか。と言ってもおそらく甘噛み程度にしかできないだろうが。
「どうでもいいですけどね。姫さんが空の上に飛んでいくつもりなら、俺もしぶとく従いていきますからね。勝手な単独行動は慎んでくださいよ。うぜえくらいお側を離れませんって、言いましたよね?なんてったって、俺は姫さんの専属護衛なんですから」
 最果てから風が吹く。火焔に似た髪を靡かせ、何故か嬉しそうな顔をして、彼が焦がれてやまない高嶺の花は振り返った。
「どこまでもお供しますよ、ヨナ姫様。天地の果てだろうが、あなたの行くところならどこまでも」
「ええ。ーー望むところよ、ハク」






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