るろうに剣心 | ナノ


▼ 悲劇は終わった幕を引け 【剣薫+縁】

 遠くで入相いりあいの鐘が鳴る。いつまで待ちぼうけを食うのかと思案していると、何気なく目で追っていた金魚のうすい尾鰭の向こうに、彼を見つめる二つの瞳が現れた。その目はあたかも珍奇な水中生物を観察するかのごとく、こちらの様子を窺っている。だが彼とて、それと似たようなまなざしで金魚鉢を覗き込んでいるだろう。今もなお、その女は彼にとって、理解し得ぬものの一つであるから。
 透きとおったガラス越しに、緋村薫が独り言のようにつぶやきかけてきた。
「あなたはいつも、神出鬼没なのよね。姿が見えなくなったかと思えば、こうしてひょっこり現れて……」
 元気だった? と、彼の湯呑みに茶をつぎ足しながら気軽な調子で訊いてくる。ここ数年嗅ぎなれた珈琲ではない嗜好品の香りが、縁には不思議と懐かしく思われた。薫は彼の沈黙をいいことに、訊かれてもいないことをあれこれとしゃべりだす。やかましいと思いながらも、彼はとるにたらない四方山話よもやまばなしに自然と耳を傾けている。そして淹れたての茶を一口啜りながら、長年解決せぬまま頭の片隅にとどめてある疑問について考えるのだった。祖国を離れることにはとうに慣れたはずだが、帰国してこの家を訪ねるときまっていつも後知恵のように、ああ、自分はこの国が懐かしかったのだ、と実感する──それはなぜなのかいうことを。
「縁。おぬしはどこか、変わったようでござるな」
 義兄が──彼自身は未だにそうとは認めていないが──彼の思案顔をながめて言った。思考を中断させられた縁は、片方の口角を上げて冷笑めいた顔をつくる。
「どこがだ。俺は何も変わってなどいない」
「いや、変わった。目つきも、顔つきも、随分と変わった……薫殿もそう思っているはずでござるよ」
 夫に目で問いかけられ、薫は縁の顔を今一度見つめた。負けじと蛇が睨み返すように眼光を放つ縁であったが、真面目な顔をしていた薫が不意打ちでニッコリと笑うと、一瞬にして肩から力が抜けたようになる。
 骨抜きというべきか、腑抜けというべきか。
 確かに自分は変わったと、他人事のように冷静に受け止めていた。
 いったい、いつから。いったい──誰のせいで。
 手もとの湯呑みからはまだ、ほのかに茶葉の香る湯気が立ち昇っている。
「……馬鹿らしい。夫婦そろって、くだらない茶番劇か」
 縁は静かに息を吐く。額を突き合わせるようにして微笑みをかわす夫婦を見ていると、もはや悪意や邪念のひとしずくさえも湧いてきそうになかった。立ち上がりざま、片腕にたたみかけていたフロックコートを広げて羽織り、シルクハットを頭に載せる。颯爽と異国の紳士めいたその立ち姿を見上げながら、縁、と義兄が呼びかけ、それからその妻が彼にステッキを手渡しながら、忘れがたい笑顔で言うのだった。
 おかえりなさい、
 そして、いってらっしゃい、──と。






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