るろうに剣心 | ナノ


▼ 魚籃の影 【剣薫】

 四ツ辻のまんなかで背後の足音が途切れた。自然と薫もその歩影を止める。振り返るか否かとまよっているうち、うしろで気配が動いた。かと思えばまた静止する。
 ──ええい、もう焦れったい、と薫は今にも地団駄踏みそうになる。
「帰るの、帰らないの、どっちなのっ?」
 憤然として後方をかえりみる。もの憂く彼女の背を見つめていたらしい剣客は、はっと表情を引きしめた。
「うちに帰りたいの、帰りたくないの?」
「……帰りたい、でござる」
「だったら、ぼさっとしてないで。置いてっちゃうわよ」
 薫はいくぶんか語調を和らげる。「帰りたい」その一言が彼の口をついて出たことに、安堵を感じていた。今日はまだこの道は、彼にとっての帰路なのだ。今日はまだ。
「薫殿、先程のこと……」
「何、まだ気にしてるの?」
「これが気にせずにいられようか。拙者一人がそしりをうけるのは一向にかまわぬが、薫殿にまで累が及ばぬかと──」
 十字路に立ち尽くす剣客は、その半身を、まるで返り血を浴びたような夕陽の朱に染めている。先方、夕飯のおかずにと薫が魚河岸で値切った、魚のかごをたずさえているのが、薫はいじらしくも、何やらせつなくなってくる。
『──人斬りが包丁で魚を捌くのは、さぞ鮮やかで見物だろうネ』
 どこぞから飛んできた揶揄。その男は侍そのものを毛嫌いしているというから、剣心に私怨があるわけではない。けれども言葉は時として刀剣よりも鋭い切っ先となり、向けられた人の胸に深々と突きささる。
 剣心が、顔周りにつきまとう蝿をはらうように、首を横へ振った。
「……いや、拙者は矛盾しているでござるな。薫殿が心配だと言いながら、こうしてあの家に帰ろうとするのだから」
「──。それ、私に頂戴」
 薫は彼の手から魚のかごをひったくった。かごの中で、活きのいいのが二、三匹、うち輝く銀の腹を見せてはねた。
「今日は私が捌くから」
「──薫殿、魚を捌いたことは?」
 心配そうに聞いてくるので、笑いながら首を横へ振る。
「大丈夫。なんとかなるわよ」
 ぶざまな包丁捌きにおろおろしてくれたらいい。──そして今日のことなんて一刻も早く忘れてほしい。
 笑顔の下で、薫は切に願った。
 




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