▼ 暮れ六ツ 【剣薫】
遠く遠く、日の沈む方角で、鐘の音が鳴る。
──一ツ──、二ツ──
腹の底に響くその音に耐えかねて、彼は、震えながら耳を塞ぐ。
夜が来るのが、空恐ろしい。
闇に生きるのは、もう、厭だ。
──三ツ──、四ツ──
冷や汗が、こめかみを伝い落ちた。
鐘は、一向に鳴りやまぬ。
夥しい血を洗い流したかのように、空が、赤く染まっている。
──五ツ──
彼の利き手が、意思に反してゆるゆると動きだした。
腰に差した刀を抜こうと、五本の指が蠢いている。
この期に及んで、まだ殺生を行おうというのか。
あまりのおぞましさに、叫び出しそうになる──
「……どうしたの?」
最後の鐘の音は、誰かの声に遮られた。
彼は、かっと目を見開いて、後ろを振り返った。
その只ならぬ顔つきに、相手は少なからず驚いた様子だった。
「大丈夫?なんだか、ひどく魘されていたみたいだけど──」
「……」
「剣心?──ねえ、大丈夫なの?」
剣心。
その声でそう呼ばれると、まるで憑き物が落ちたように、彼の全身からふっと力が抜けた。
「ああ。拙者は大丈夫でござるよ、薫殿──」
「そう?なら、いいけど……」
頭にリボンをつけた少女が、ほっとした顔つきになる。
隣にやってきて腰をおろす彼女をながめながら、彼は今の状況を把握した。斜陽の差すこの縁側で、柱にもたれかかりながら、しばしまどろんでいたようであった。──そしてそのまどろみの中で、幕末の悪夢を見ていたのだ。
「ねえ、剣心。私、おなかがすいちゃった」
笑いながら、あっけらかんと言う薫。悪夢とはかけ離れた心安らぐ一瞬に、剣心の胸がじわりと熱くなる。
「もう夕暮れ時よ。──弥彦も終わる頃だろうし、そろそろごはんにしなくちゃね」