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凛冽たる眸

 泣き虫だった。ひどい、泣き虫だったとも。
 彼女はなにかにつけても泣いていた。怖いときも泣いたし、悲しいときも泣いたし、苦しいときも泣いたし、楽しいときも、嬉しいときも、たくさん、泣いた。だから、俺の母上が亡くなったときも、ひどく泣きじゃくって、俺よりもとてもよく、泣いた。俺はそんな丸まる小さな背中を抱きしめながら、このひとを守ってあげたい、と思ったのだった。
 そよぐ風に吹かれ、長い髪をふんわりと揺らして。ふと、一陣の強い風が吹くと、そっと手で押さえて恥ずかしそうにはにかんだ、十五の夏。泣き虫だった彼女はとても美しく成長していた。ずっと傍に居たはずの俺でさえ、ひどく美しいのだと思ったのだから、そこらへんの馬の骨とてそれは美しいと思うだろう。仕方がないと思う。器量よしの彼女だから、さぞ求婚する男は多かったろう。ましてや十五、結婚を考えてもおかしくない年だ。そう、それが、普通の女の子であったのなら。だが違う、彼女、────……名前は、俺と同じ鬼殺隊に身を置く戦士だった。

「今日は風が強くてやんなっちゃうわ、髪の毛、ばっさり切ってしまおうかしら?」
「名前は長い髪も似合うが、きっと短い髪も似合うさ」
「本当?」

 嬉しい、とまだ髪を短くしたわけでもないのに、とてもうれしそうに笑うから胸の内がくすぐったい。本当だとも、と頷いてから、木刀を片手に素振りを再開する。それを眺めて居た彼女も、同じくして隣で素振りを始める。
 素振りは、ただむやみに振り回せば良いものではなく、その一回々々で形を崩してはならぬ。地を踏みしめる足先、振り下ろす筋肉のしなり、ブレない切っ先。師の居ない、炎の呼吸の書だけで必死に学ぶ俺は、おそらく他の隊士に比べて成長は遅いだろうに、名前は彼女の育手や同門の隊士とではなく、俺の傍に居たがった。純粋に、幼馴染がゆえの贔屓に違いないだろうが、それでも俺を選んでくれたことに、たしかに優越感を得てしまっていた。悪いことだ、それは。自惚れてはいけない。
 気の遠くなりそうなほどの回数を共にこなし、さすがに汗と息切れをしてしまう俺に、彼女は手ぬぐいを差し出してくれるのでありがたく汗を拭う。暑いな、と唸る俺にめがけて、井戸水を遠慮なしにぶちまけられて、名前もまさかそんなにぶっかける気はなかったらしく、二人して目を見合わせて大きな声で笑った。
 そんな、共に鍛錬した十六の夏。

「柱の就任、おめでとう!」
「ありがとう、名前。俺とてまだ未熟だが、拝命したからには全力を以って全うするつもりだ!」
「さすが杏寿郎、頼もしい」

 そう言って、笑いかけてくれたのは、十七の初夏。
 その年の夏は、蝉の鳴き声がうるさくて、うだるような暑さの日ばかりが目立つ猛暑だった。とはいえ、俺達が活動を主とするのは夜なので、昼間は隊服を脱いで鍛錬をすれば良いし、まあうまいこと暑さを誤魔化せていたとは思う。しかし、二人で太陽の真下で木刀を振るうのは、さすがに顎先から滴る汗が砂利を濡らした。
 二人して隊服の上着を脱いだだけの姿なので、俺は兎も角、名前は汗のせいで身体にぴったりと張り付く衣服がいやらしくて、喉がごくりと鳴る。ああいけない、と、純粋に慕ってくれる彼女を裏切る真似だけはしたくない、と思って、必死に目を反らす。俺は、ああ、そうだろう、きっと、名前が好きだ。恋い慕っている。けれど、彼女はいつだって俺にまっすぐに向き合ってくれるので、なんだか俺はこの自らの抱える恋という感情がいけないもののような気がして、ひどく、持て余していた。

「名前、とりあえず今日は、ここまでにしようか」
「?なんで、まだお昼だよ」
「だからこそだ、今夜は……俺も任がある、だから、今日はとりあえず帰ってくれないか」
「そっかー、わかった」

 冷たい、言い方となってしまったかもしれない、と危惧する俺を気にせず、彼女は楽しそうに手を振って去っていったので、妙にほっとした。嫌われるのが怖いくせに、冷たくしてしまうなど、俺はどうにかしているのではないか、とも思ったが、そんなことを吐き出す相手すら居なくて、ふと実家のある方向をぼんやりと眺めてしまって、それから頬を張って邪念を打ち払おうと努力した。
 それから、継子ができたのはすぐのことだった。継子に稽古をつけるために、元より柱は多忙であるから、俺は全く名前と会う機会が減ってしまった。それは、俺と甘露寺が共に暮らしているからというのもあるかもしれない。気を使ってくれたのだろう。どこか、ほっとしたような心地と、物足りない心地と。時折、手が空いたら手紙を認めるようにはしているが、文字上だけでは彼女の本当の気持ちはわからない。
 鬼殺隊に入ってからというのもあるかもしれないが、名前が泣く姿はここ数年全く目にしておらず、あれは幼少の頃だけのものであったのだろうと思っていた。俺と共に過ごしたあの十六と十七の夏だって、彼女は笑顔だった。楽しそうに、していた。
 だから、きっとあの子に俺はもう不要なのではないかと、妙な自論でこの恋に決着をつけようとした。どこか安堵している自分が居るのだ、だが俺は逃げてはならないと、たしかに分かっている。いつか、この恋にも決着をつけねばならない、と。分かっていることだった。だから、名前に会いにいこう、と思ったのだが。

「は、ッ………!」

 鬼という生き物は理性も善悪も人を食えば食うほど失い、全て正常な判断を損なう。元は同じ人間であったはずなのに、彼らはもはや人間としての尊厳や矜持も、愛も、全てを失う。鬼は許さない、俺が屠るのだけれど、しかし、憐憫は僅かに垂れる。もちろん、それを表になど出さず、ただ成すべきものを成すことこそ、俺が柱たる所以。
 一般人は居なかったのだが、俺に追従してくれていた隠の一人が襲われそうだったので、彼らも鬼殺隊の一員であるとはいえ非戦闘員だ。守るべき人民の一人であり、迷わず俺はこの身を挺して庇った。まあ、それだけで分かったかもしれないが、ざっくりと、肩から袈裟懸けに切り傷を受けてしまう。血液の巡る管、一本一本を全てこの身体で支配しうるため、強く集中し呼吸で出血を止めはしたが、傷は深く、唇から血を吐き出し崩れ落ちる。それと同時に、ごとりと落ちる鬼の頸。それを見届けてから、意識を手放した。


※※


 俺にとって、名前という少女……否、もう女性と呼ばねば失礼だ。彼女は、どういう存在なのだろうか。愛しい人だろうか、ああ、そうだろう、懐かしいひとだろうか、ああ、そうだろう、優しい人だろうか、ああ、そうだろう、守りたい人だろうか、………ああ、そうだ。
 しかし、彼女は美しくなった、泣かなくなった。あの子を慰める存在だった俺は不要なのではないだろうかとも思った。所詮は独りよがり、勝手に拗ねてしまっているどうしようもない男だ。だが、俺にはもう拗ねた自らを慰めてくれと、頼れる大人など居なかった。父はあの通りだし、弟は俺が守らねばならぬ。この胸に炎が燃える限り、俺は立ち止まってはならないのである。
 だが、どうだろう、今の俺というのは、何かが抜け落ちてしまったかのように、空虚で、脆い。ふと、横を見ると、真っ暗な闇。俺はどこから来たのだろう、こちらだったか、と呆然として歩くその腕を誰かが掴む。

「離してくれ、俺はあちらにゆかねばならない」
「いいえ、そんなことはない。貴方はこちら側に帰ってきて、」
「だが、俺はあっちに行きたいんだ」
「いいえ、貴方はこちらの人間、あちらに行く必要はないの、お願い」

 引き止めた主は、悲しげな声を漏らして、そう告げるのだけれど。これは誰だったろう?思考がぼんやりしていて、まったく誰だか思い浮かばなかった。
 君は、誰なんだ。

「泣いているのか、悲しいからか?」
「ええ、そうね」
「なぜ、悲しいんだ」
「ええ、うん、……、貴方が、」

 目を、覚まさないから、と呟いた彼女が顔を上げた途端。急に、ふっと心得て、確かな感覚が落ちてきた。

「君は──………」


※※


 目が覚めると、窓から降り注ぐ陽光が室内を照らし、温度は上がっており、布団に包まれる俺はぽかぽかと全身暖かかった。ここは、と思って、見慣れた屋敷の作りに蝶屋敷だと気づく。
 季節は春、この陽気ではなるほど、窓を開けるのも良い。やわらかな風がそよそよと吹き込みカァテンを揺らす。レェスの優しい風合いが陽光を程よく解かせ、床に斑模様を作っていた。そんな暖かな空気に不釣り合いな、俺の寝台に顔を埋めて肩を揺らす人物がひとり。ひと目見て誰かなど、俺はすぐに分かってしまったのだけれど。心配を掛けてしまったと思って、頬にかかる長い髪を払ってやれば、その人物は飛び跳ねるようにすぐに顔を上げた。

「杏寿郎、起きたの」
「ああ、起きた。………すごいな、顔がぐしゃぐしゃだ」

 そんなことない、と鼻声で呻いた彼女は、手の甲で乱雑に濡れた目元を擦るので慌てて止めてやって、病人着の優しい素材の袖口でそっと目元を押し涙を拭う。これでもかと涙を流していたらしく、長く艶のある髪は頬に張り付いていた。まるで、子供の頃に戻ったようだ、と思っておかしくなった。けれども、きっと、そうではないんだろう。ずっと、名前は泣き虫だったに違いない。ただ、大人になったことで少しそれが鳴りを潜めただけで、彼女が泣かなくなった、というのは、誰かに守られていたからなのだろうなどと、勝手に都合の良い解釈をした。まあ、それは病み上がり故に笑って聞き流してほしい。俺の手柄だったのだと、今くらい悦に浸らせてもらおう。

「杏寿郎が起きないかと思った、夢の中で、杏寿郎が、真っ暗な方へ行ってしまうから、私は行かないで、って必死に引っ張った」
「うん、そうだな。俺を呼び戻してくれて、ありがとう」
「だって、だって、今日何日だと思う、杏寿郎ったら、ひどいんだもの」

 日付を気にして彼女がまた泣きじゃくり始めたので、壁に掛けられた日めくりカレンダァを見て、あ、と声が漏れる。俺の誕生日は初夏であったが、名前の誕生日は春なのである。今日がまさにその日で、思わず頬を掻いた。なるほど、たしかにこれは。
 ぐすぐすとまだ涙の止まらない名前の肩を抱き上体を起こさせ、とりあえず俺の腕の中に閉じ込めれば、彼女はちょっと驚きはしたものの、すぐにしがみついて抱き締めてきた。少々傷口に響くが、彼女の怯えを取り払うためだと思えばこれくらい、と歯を食いしばる。

「そうだな、危なかった、名前におめでとうを言わずに死ぬわけにはいかない」
「違うでしょ、私の誕生日を命日にするなんて、最悪だよ、ばか、」

 はは、と笑い声が漏れる。
 一年弱ほど交流を断ってしまっていた幼馴染の俺に、名前は相変わらずに接してくれているが、彼女はなんとも思わないのだろうか。にくいとか、なんで、だとか。そう思って表情を見つめていたら、名前は不可思議そうに首をかしげる。なぁに、と呟き瞬く長いまつ毛に乗っていた雫がぽたりと落ちはしたが、瞳から新たな水が生成されることはないらしくて安堵した。君の目を冷やさなくてはな、と、暗に濡れ手ぬぐいで目を冷やせと促したのだが。彼女はまったく動くつもりもなくて、仕方がないのだが、誰か看護婦の方が来てくれるまでは待とう、と情けないことに傷口が大きく動くに動けない俺は、名前を腕に抱いたまま背面から寝台へ沈むこととした。名前は抵抗をひとつもしないで、大人しくしているので、ふと、ほんのからかいのつもりで言葉を口にした。

「男の腕の中に素直に収まるものじゃないぞ、俺は君が好きなんだから」

 冗談と、笑い流されたらそれはそれで、と思っていたのだが。想定外に名前は顔を真赤に染め上げて、恥じらいに伏し目がちになって床の目を視線でなぞって後、そっと俺を見上げる。その大人びた色香にごくんと、喉が鳴った音が大きく響いた気がした。

「当たり前でしょ、女の子が素直に腕の中に収まるんだから、その男の人が好きなのよ」

 だなんて、言われてしまってはひとたまりもなくて。してやられた、と額を押さえる俺に嬉しそうにしがみつく彼女は、にこにこと赤い目元のままで途端に上機嫌で俺の瞳を覗き込む。それから顔を寄せてきたので、こればかりは俺からでなくては、と後頭部に手を添えこちらから唇へかじりつく。歯が当たると驚いていたが、すぐに唇同士を触れ合わせれば恥ずかしそうに瞳を細め、俺の唇を感受してくれる。
 ああ、好きだ、君を離したくはないな、と、愚かにも距離を取ることを選択した自らを責めたい気持ちにもなったが、しかし過去は変えられない。ならば、俺はこれからの先を、ただ君に捧げる決意をするのだとも。俺の決意を知ってか知らずか、名前は俺の胸板の上に乗り上げすっかりご機嫌だった。

「五月は、私が必ずお祝いしてあげるからね、杏寿郎」
「ああ!そうだな、名前に祝って貰わないと、俺の調子は出ないんだ」

 君からもらう、祝福を、俺は熱望している。この情けない体たらくな俺でも、それでもいいと君が言ってくれるのだから、今度こそ俺はただ君を見つめ、守ると誓おう。たとえ、それがいつか、鬼に引き裂かれる、悲しい運命だとしても。
 たった、二人だけの空間、そよぐ風、それから血と消毒薬、時々、君の香り。いまは、この小さな空間が全てだから、俺はひどく安心をして、君を抱きしめる。願わくばどうか、君のゆく先に、幸多からんことを。


執筆:主催 / テーマ:誕生日
タイトル:suiren様より
参加者様、閲覧者様に多大なる感謝を捧げます
(20/05/10 掲出)



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