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アルテア

「約束を果たしてもらおうか」

ライオンのたてがみのような金色の髪の毛をふさふさと揺らしながら、名も知らぬ彼は言った。
目があったのだ。
ちん、と金属をあわせたような音がして、風のにおいが変わった。
燃え盛る真昼の太陽のようなたてがみを揺らしながらまっすぐにわたしを見つめる不思議な色の瞳から、わたしはなぜだか目を逸らすことができなかった。

「約束…」
「ああ、約束だ。きみがほとんど一方的に取り付けて、おれのたいせつなものを持っていってしまった。否、いってしまったのはおれのほうか。まあ、そんなことは些細なことだ。とにかく、身体が軽くて困っている。生きたここちがしないのだ」

口を挟むことができなかったのは、彼の瞳を見つめているうちに、なにかとてつもなくたいせつなことを忘れていて、すんでのところで思い出せていないというような気になったからだ。

今日はとても晴れた日で、ネオンブルーの空に、彼のたてがみはとてもよく映えた。
シャツと深い赤のネクタイの上からネームホルダーをかけていて、教師をしているとのだということがわかった。
すぐそこの催事ホールの入り口に、教員向けのセミナーの案内の看板が立っていた。

「すみません、ひと違いだと思います」

「…そうか。変なことを言ってすまなかった。きみがそう言うのなら、そうなのだろう」

「あの、返ってくるといいですね。たいせつなもの」

「どうだろうか。おれがあげたものを、その後彼女がどう扱ったのかは与り知らないのだ。約束ごと捨ててしまったかもしれない。忘れてどこかへやってしまったのやも。ともかく、驚かせてすまなかった。縁があれば、また会うだろう」

ずっしりとしたおおきな身体に、あわせ鏡のような不思議な光彩の瞳。
たてがみは後ろがハーフアップに結われていて、毛先だけ燃えるように赤かった。
なぜだか無性に申し訳ない気持ちになったのは、例えようのない胸騒ぎのなかで、わたしがたいせつなことを忘れているだけという可能性を拭いきることができなかったからだ。
そんなはずはないのに。そもそも、借りたものはすぐに返す性分なのだ。


後日わたしたちが再会したのは、縁あったからではない。
彼に会わなければいけない気がしたわたしが、A看板に記されていた次回のセミナーの終了時間をめがけて、再度そこを訪れたからだ。
「なにかを思い出したわけじゃないけれど」
そう言うと「それでも結構」と答えて、彼は豪快に笑った。
花のような繊細さはないけれど、花がぱっと咲くように、気持ちのよい笑い方をするひとだった。


煉獄杏寿郎というおとこと交際をはじめるまでに、そう時間はかからなかった。
それが自然のなりゆきだというように、わたしたちは愛しあった。
この奇妙なひとめぼれを、運命と呼ぶたび、彼は白く並びのよい歯を見せて、おおきく笑うのだった。

杏寿郎さんは見かけによらず、よく体調を崩した。
わたしは運がいいことと、身体が丈夫なことだけがとりえだった。


梅雨入り前の夜はひどく蒸す。
書斎にいる杏寿郎さんへアイスティーを差し入れておやすみのキスを交わしたあと、寝室へと向かったわたしの頭のなかで、あの日と同じ、ちん、と金属をあわせるような音が響いたのだ。
わたしは弾かれるようにして部屋を飛び出した。
はだしでフローリングを踏む品のない音を立てながら、わたしのこころははるかな過去へと戻っていく。

「心臓の半分」

ドアを押し開けるやいなや、わたしは呟いた。
ノブの音に掻き消えて届かなかったかもしれないと思って、もう一度。
心臓の半分。

「夜更かしは感心しないな」

椅子ごとこちらへ振り向いた杏寿郎さんに駆け寄ってその膝の上に跨るように座り、わたしはぺとぺとと彼の頬に触れた。

「どうしよう。どうやって返せばいいの」
「さて、それがおれにもわからんのだ」

杏寿郎さんはさして焦りも驚きもせず、いつも通りのすっきりと明るい笑みを浮かべていた。
わたしはというと、涙がすぐそこまで込み上げてきて、息をするのさえ苦しかった。喉と鼻の奥が焼けるように熱い。
どうしてこんなたいせつなことを忘れていたのだろう。



脳裏に浮かんだ光景から、あの金属音は刀の鯉口を切った音だとわかった。
炎のような鍔から赤い刀身が顔を覗かせていた。

分厚いアクリルケースのなかにいるような薄く白濁した世界のなかに、杏寿郎さんはいた。
彼の瞳に映るわたしは、着ている服や髪型を抜きにすれば、今と寸分も変わらなかった。
彼は、学生服のような黒の詰襟の服の上から、めずらしい裾の処理が施された羽織を着ていた。今よりも、さらにがっしりとした体型をしているように見えた。


「杏寿郎さんのすべてがほしい」

「言われなくともおれは既にすべてお前のものなのだが、それはそんな回答じゃ満足できないと言った顔だな」

「もうどこにも行かないでほしいのです」

「んん、それは難しい」

「そんなようじゃ、すべてをもらったことにはならないわ」

はじめは誰かの記憶を覗き見ているような気分だったのに、口から勝手に言葉が転びでてからは、すっかりとせつない気持ちになってしまった。
こころが擦り切れてしまうほどに傷んで苦しかった。
彼のことを忘れていただなんてとんでもない。なによりもたいせつなひとだったのに。

「じゃあ、心臓の半分をください」
「それはまた物騒だな!」
「わたし、本気です」
「いいだろう。どう渡せばいい」
「こころのなかでしっかりと誓って、くちづけを交わすだけでよいのです」
「わかった。お前におれの心の臓の半分を。誓うよ」

すこし硬いくちびる。杏寿郎さんの身体はなにもかもがわたしと違う。
もしもあなたがいなくなってしまったら、わたしはわたしの身体のどこを触っても、あなたの感触を思い出せなくなってしまう。
鬼に殺されてしまうということは、骨になってしまうことではない。骨も髪も身に着けているものさえも、なにひとつ残らないことだってあるのだ。風のように、かおりのように、行き先すらもわからない。まるでそこになにもなかったみたいに。

ままごとのような契りでもわたしを安心させる要素のひとつになり得るくらいには、その時分のわたしのこころはすっかりと弱っていた。

「西洋では悪魔と取引する際、心臓を売るんです。そのかわりに、天国にはいけなくなるの。杏寿郎さんの辿りつく先が天国でも地獄でも、幾度輪廻を繰り返しても、杏寿郎さんのかけらを持っているわたしはきっとあなたに辿りつける。いつか平和な世で再びめぐり会うとき、きっとお返しします」

「よし。おれの心臓はきっとお前を守るだろう。離れていても。平和な世で再びめぐり会うまで」



杏寿郎さんの膝に跨ったまま身を乗り出すと、椅子の背もたれが鈍い悲鳴をあげる。
杏寿郎さんはわたしの腰元におおきな手のひらをあてると、くちづけの予感をキャッチして、顔をわずかに傾けてくれた。
深く重なったくちびるから、わたしのこころの底からあふれる、あの日の誓いや不安やせつなさや、痛いほどの愛などがないまぜになった激情が、そして杏寿郎さんの心臓の半分、誰にも悟られずにわたしのなかで生きた杏寿郎さんの魂のかけらが、彼の元へなだれ込んでゆく。

「驚いたな!身体が重い」
「おかしいわ、わたしは前よりもずっと重たい」
「あたりまえだろう。人生ひとつ分の記憶を忘れていたのだからな」
「わたしがなにもかもを忘れていたのも、なぜか幸運な人生を歩んできたのも、杏寿郎さんの魂が、わたしを守ってくれていたからなんですね」

わたしのこころに降ってきたこの記憶がほんとうに前世の記憶なのかどうか、真偽のほどは確かめようがないのだから、わからない。
ただ、わたしの記憶が正しければ、杏寿郎さんはあの契りのあとの任務から還ってくることはなかった。そのあとのことはノイズがかってうまく思い出せない。

わたしは奇妙な重たさを得た身体で、杏寿郎さんを強く抱く。
杏寿郎さんは、わたしをあやすように、頭をぽんぽんと撫でてくれた。
届くかどうかはわからないけれど、わたしは過去のわたしたちへ語りかけるように、強く思った。
約束を果たしたこと、安心してほしいこと、導いてくれてありがとうということ。


もうすぐ梅雨が来る。
わたしの隣には太陽のようなひとがいて、不安とも憂鬱とも、もう無縁だという気がした。もちろん、不安しのぎの約束とも。

胸に頬を寄せ目をつむるわたしを、杏寿郎さんはそのまま抱き上げた。ちいさなこどものように抱っこをされたまま、寝室のアロマのかおりが深くなるのを感じていた。


執筆:sumire様 / テーマ:約束
素敵なお話をありがとうございました
(20/05/03 掲出)



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