X-day
*キメツ学園パロマンションのワンルーム、ほどほどに生活感の滲み出たそこが今の私たちの家だった。
ベッド上から夕焼け雲を眺めて、もうすぐ彼が帰ってくる時間だから多少は身だしなみを整えた方がいいのかな、床が散らかっているので少し叱られるかもしれない――と思いつつ動けずにいる。やわらかいクッションがあるのが悪いのだとそこに顔をうずめていると、玄関先から軽快な足音と鍵を抜き差しする音がした。
「やあ、ただいま!」
結局何の用意もないうちに彼が帰ってきてしまった。「おかえりなさい」と一足飛びで玄関に向かえば、夕陽を背に杏寿郎が入ってくるところだった。
杏寿郎は育ちがいいので玄関先で靴をきちんと揃えることは忘れない。靴下も脱ぎ捨てずにちゃんと洗濯かごにポイしにいく。
でもスリッパを履くのは忘れたり、職員会議の書類を学校に置いてきたと慌てたりしていることもある。慌てたついでに椅子の出っ張りに足の指をぶつけて痛がったりすることも稀にある。
見上げる私の頭をわしわし撫でて、ネクタイを緩めながら杏寿郎は室内をぐるっと見渡す。鳥みたいに大きな目がもっと大きくなった。
「またこんなに散らかしたのか君は!」
「杏寿郎が帰ってくるのが遅いから」
「本当にしょうがない子だな!」
でもちょっと嬉しそうだ。床の片付けをはじめる大きな背中を見ながら思う。
私が悪いのだけれど、杏寿郎が私のような出不精に次々とモノを買い与えて甘やかすのもよくないのだ。それにご飯も好きなだけ食べさせようとするから少し太ってしまった。杏寿郎はたくさん食べてもそのぶん動くから太らないけれど私はそうじゃない。
ぬいぐるみを拾い上げた杏寿郎は私に言った。
「今日はお客がいるんだ」
「だれ?」
「職場の同僚たちでな! 夕飯に鍋をやろうと思う」
「どうりょう」
「こたつを出そう。名前も好きだろう?」
こたつは好きだ。ほのほの暖かくてとても素敵だと思う。
でも同僚ってなんだろう。
私は首をかしげる。
新しい言葉はわからないので覚える必要がある。それは“雌”なの? ってちゃんと聞ける口があったらいいのに。
いつもなら私を膝に抱えて耳裏をくすぐってくれるのに、今日の杏寿郎は準備と片付けでせわしなくて少し不満だった。あんまりこっちを見てくれない。
「ねえ抱っこしてよ」
「冨岡先生は無理に誘ってしまったのだが来てくれるだろうか」
今日も私たちの会話は必然的に噛み合わない。
私は杏寿郎の膝に手をかけてぎゅっと爪を立てた。念入りに研いだ自慢の爪だ。む、と彼は小さな抗議の声を上げる。
「いけない子だ」
こう言われるのが私は好きだった。
なんだかちょっと興奮しちゃう。
「煉獄、猫飼ってたのか」
最初に入室してきたのは宇髄と呼ばれるとても長身なひと。すぐに私に興味を示して、指を私の鼻に近づけて怖がらせないように挨拶をしてくれた。
「台所借りるぞ」と、ひとり一直線に台所に向かって手を洗い、慣れた手つきで野菜を切りはじめたのは白銀色の髪のひと。最後に入ってきたのが表情筋がほとんど動かない黒髪のひとで、しかもドアの前からも動かない。
とりあえず杏寿郎の同僚はみんな雄だったので、私は少し安心した。
宇髄さんがまとめ役らしく指示を出す。
「冨岡と煉獄は台所に立つことに向いてないから座ってろ」
「かたじけない!」
杏寿郎は私を抱っこして膝に抱え込んでくれた。その状態で入るこたつは格別で何も言うことはない。
冨岡と呼ばれたひとは杏寿郎の右手に座るように言われ、その通りに座ると向かいのテレビを見始めた。
口数の少ないひとだ。下から覗き込んで観察すれば、彼はとても整った顔をしている。
冨岡さんも私を見てそして口を開いた。
「黒猫を見ると」
「にゃ?」
「結核が治る」
「じーさんかよ!」とお皿を運んできた宇髄さんが冨岡さんにツッコミを入れた。「ありがたいんだ」と冨岡さんは気にする素振りもない。「名前は黒じゃなくてもありがたいぞ!」と杏寿郎も斜め上なことを言っていて、なんだかみんなおかしい。
「俺はガキの頃に『黒猫は不吉』ってのをよく聞いたけどなァ」
不死川、と杏寿郎が呼ぶひとが台所から出てきた。「あー俺もそういう迷信聞いて育ったな」と宇髄さん。冨岡さんはテレビをガン見している。
不死川さんはお刺身がきっちり盛りつけられた大皿を運んできて机に置いた。
「黒猫に道で出会ったらその場で3歩下がらないと不幸が訪れる、とか」
「俺は名前と出会ってから良いこと尽くめだぞ?」
その言葉が嬉しくって私は杏寿郎の口元をぺろりとひと舐めした。
「私も杏寿郎と出会ってからいい事しかないの!」
「その猫発情してねぇか?」
「失礼ね!」
「なんか今睨まれた気がした」と宇髄さんが箸をとめる。
違うのよ、不死川さんがきれいに捌いてくれたお刺身が私を興奮させるの。睨んだわけじゃなくって、その咀嚼されようとしているマグロが気になっただけ。
「名前は賢いからな」
杏寿郎は私を後ろからムギュッとしてフニっとして、肉球をやわやわほぐしていく。
――まあ誤解されたままでもいっか、とあくびをひとつ。杏寿郎が私のことを誇らしげにしてくれてとても嬉しいし。
「名前も刺身を食べるか?」
「うん」
杏寿郎の箸で小さく切り揃えられていくお魚たちを見て私はうっとりした。今日もお腹いっぱいなくらい、私の身体はしあわせで満ちている。
でも私ちゃんと知ってるの。
今私の背中に置かれている陽だまりみたいな手が、いつか私じゃない違う雌を愛でる日がくることを。
杏寿郎はその雌にお腹いっぱいご飯を食べさせて欲しいものを買い与えて、それは大層可愛がるのだろう。名前を呼んで舐め合って、くるくると抱き合って戯れる。私にしてくれたのと同じくらいか、あるいはそれ以上に。
そうなったら私は杏寿郎の首に噛みつくか相手のひとに爪を立ててしまう。不幸を呼ぶ黒猫迷信も、そうなってくると現実味が増すというものだ。
ならば私がやるべき事は一つだけ。
私は杏寿郎にとって福を招く方であり続けたいから。
「もう一口、おさしみ頂戴」
遠くない未来、きたるであろう別れの日を呪いながら、今日も私は貴方の指を舐めている。
執筆:こと子様 / テーマ:片恋
素敵なお話をありがとうございました
(20/04/11 掲出)