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魚心あれば水心

彼女の家の床の間に置かれた金魚鉢を覗く。
外はうだるような暑さだが、水の中では先日の縁日で取ってやった金魚が気持ち良さそうに泳ぎ回っていた。餌でもやろうかと隣に座る彼女を見やれば、右手で左の二の腕をぎゅっと掴んでこちらを見ていた。それは、緊張した時に必ずする彼女の癖だ。

「ねえ煉獄。私、恋人ができたの」

そう頬を赤らめて言ったのだから、俺の顔は彼女の赤とは反対に、それはもう青くなっていただろうと思う。
あの時からもう半年も経つというのに。目を閉じれば鮮明に、まるで昨日のことのように思い出せる。あまりに衝撃で、忘れたくても忘れられなくなっているのだろうか。
初めて好きになった女性だった。いつか自分が恋人に、そう思っていたというのに。初恋だった彼女に出来た初めての恋人。どこの馬の骨かも分からない奴にうつつを抜かす様を見せ付けられるほど、惨めなものはなかっただろうと思う。
しかし、会話の端々に恋人への惚気を混じらせていたのは最初の一ヵ月程度で。そこからはやれ手紙を寄越さないだの、やれ浮気をしているかもしれないだの、話の大半は愚痴を聞かされるようになった。
惚気はもちろん愚痴ですら聞いていていい気はしないのだが、彼女が話に来てしまったらそれを拒むことはできないでいた。俺はどうにも、彼女に惚れてしまっている。

「ねえ煉獄」

まるであの暑い日と同じ様だった。
何の気なしに寄ったのだ。美味しい饅頭を貰って、そういえば饅頭が食べたいと手紙に書いてあった事を思い出して。ならば寄って、顔の一目でも見て帰ろうかと思っていた。そうしたらお茶を飲んでいけばいいと招かれ、饅頭を食べ終わり手持ちぶさたで金魚鉢を覗けば、随分と丸々太った金魚が口をパクパクとさせてこちらを見ている。せっかくなら餌をやろうと思っていたところだった。振り返れば彼女は、右手で左の二の腕をぎゅっと掴んでいた。

「別れようだって。先週、言われちゃった」

見えるはずのないあの夏の日が見えたような気がして、幻を消すように数回瞬きをした。目を開ければそこに夏の姿などあるはずもなく、2月の風が流れる部屋だった。
あの日と同じ様に見えた彼女をよくよく見れば、夏とは違い頬を赤らめる事はない。むしろ少しばかり青白い顔に感じる。恋人と別れた事による喪失がそうさせているのか、頬に刺さる冷たい空気がそうさせているのかは分からなかった。

「そうか」
「素っ気ないなあ」
「君はまだ、そいつが好きなのか」
「うーん、好きとは違うかな。初めての恋人だったから、想い出はあるけど」

彼女は笑って言った。その顔は晴れやかにも見え、酷く落ち込んでいるようには見えなかった。
ただ、仮にも恋人であった人と別れたのだから悲しくない訳ではないのだろう。もしかしたら泣いたのかもしれないし、泣いてないのかもしれない。ただの友人の俺には知る由もない。笑わすのも泣かすのも恋人であった男で。
俺は酷く腹が立っていた。彼女にでも、恋人であった男でもない。自分自身にだ。

「俺は、」

後悔先に立たずとはよく言ったもので、その言葉通り早く気持ちを伝えなかった事を後悔していた。
伝えようと思えばいつでも伝えられたはずなのに、心地のよい関係にかまけていた。だから横から掻っ攫われていく。それでも俺は彼女に心底惚れていたのだから、恋人ができてからも良い友人を演じていたのに。本当は心の中で「別れてくれれば」と願っていたのだ。情けない、本当に情けない。あまりにも女々しい自分に嫌気がさしていた。
しかし、これまで話題にも上がらなかった男が彼女の恋人になった事で分かったことがある。自分が好意を示せば、相手は少なからず興味を持ってくれるという事だ。ただそれは伝えた場合だけの話。いくら誰にも負けない気持ちを持っていても、彼女に好意を伝えなかった。俺はその時点で、恋人になった男に負けていたのだろうと思う。
だから俺も伝えなければ、嫉妬する権利もなければ同じ土俵にも立てない。なら、伝えるまで。

「俺は、別れてくれて良かったと思っている」

柄にもなく緊張していた。ぴりりとした中に隠しきれず滲み出す好意は確実に相手まで流れていた。名字を見やる。その顔は驚きを隠していない。
「煉獄」と耳障りのいい声が俺の名前を呼んだ。青白かった顔にほんのりと灯る朱色。それがどういう理由なのかを知りたかった。
「名字」返事の代わりに名前を呼ぶと、整えられた爪が並ぶ白い指が俺に向かって伸びてきていて。

「……理由を聞いても?」

頬に指が触れる。ひんやりとしたそれが熱くなりすぎた自身を冷やしてくれるようだった。その指に手を重ねる。拒まれるかと思ったが、するりと指が絡まった。

「名字の事が、ずっと好きだった」

俺の言葉に、名字はなにも言わずに笑った。
返事の代わりに、絡まる指からじわりじわりと好きが滲んでいくような気がして。頬から伝わる二人の体温の心地よさに目を閉じた。


執筆:一二三様 / テーマ:別れ
素敵なお話をありがとうございました
(20/07/19 掲出)



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