無彩色と橙
抜け殻のように色を失った世界で過ごしていた。鬼に家族を殺された胸の痛みは、憎悪は、忘れてしまったのか。それほどまでに、私は煉獄杏寿郎という一人の人間を愛していたらしい。
「俺は煉獄杏寿郎だ。よろしくな。悩みがあれば遠慮せずに話してくれ。その他良いことも悪いことも、あればそれも全て教えてくれ。そういうことをきちんと共有していこう」
前世の記憶なんてものはなかった。しかし、教育実習生としてこの学園でお世話になった煉獄さんとは程なくして交際に発展した。純粋に彼の、生徒に対する真っ直ぐな眼差しや熱い想い、そして包み込むような優しさ、男らしさ全てに惹かれていた。ただ、今思えばそんなことは全て後付けで、煉獄杏寿郎であるからこそ、私は彼を好きになったのだと胸が痛いほど実感している。
「こうですか?」
とある休日だった。
恥ずかしいことに私は魚を捌く、ということを人生で経験せずに生きてきた。自分一人なら別段問題はないが、もし、今後この人と生きていくのであれば……と、こっそりとそういう未来を頭の中で胸を火照らせながら淡く描くようになった。
だったら、魚くらい捌けるようにならないと、と意気込んだ私は早速始めてみることにしたが、上手くいかなかった。
しかも、指を切って絆創膏を貼る羽目になり、なんとも情けなかった。私の鈍臭さは折り紙付きだ。
けれどもその指を煉獄さんに指摘され、正直に話せば一緒にやろう、と提案してくれたのだ。自分ができなくて煉獄さんができることにいささか悔しい思いはしたものの、彼とキッチンに並ぶ時間はとても温かくて幸せだった。もし、近い未来にこれが当たり前になるのかなんて思い浮かべてしまうくらいには、お花畑に囲まれるような心地の良い毎日を過ごしていた。
まさか、煉獄さんが師範になってくれるとは思いもよらなかったのだ。師範と弟子。ままごとのようだったけれど、そんな立ち位置で物事を進めた所為だったのだろう。
「ああ、いいぞ。君は筋がいいな」
煉獄さんの、何気ない一言だった。助言を聞き入れ手を動かす感覚、すぐ傍には真の通る優しい声。それはあの時と、同じだったのだ。
「……、っ……!」
「名前?どうした!?」
急に激しい頭痛が私を襲った。刃を置いて頭を抱えしゃがみ込む。人は死に際、走馬灯が見えるというらしく、それに似たようなものが真っ暗になった世界の中で浮かんだ瞬間、持病も何も持ち合わせてはいなかったのに私はこのまま死んでしまうのかと、そう思った。
けれど、頭の中で無彩色に巡る記憶、それは今の私の過去ではなかった。
─君は筋がいい、俺の継子にならないか─
煉獄さんと今世で出会ったのであれば、いつ私の前世の記憶を刺激してもなんら不思議ではなかったのだ。
前にも、ずっと前にも言われた私を救う、誰かに認めて欲しかった一言が引き金となって、私は前世の、醜い自分の人生を脳内に蘇らせてしまった。
煉獄さんが初めて私にかけてくれた言葉は、それだった。
私は、子供の頃から人より何をするにも劣っていた。例えばそう、今のように一人で魚も捌けような、そんな役立たずであった。けれどもそんな私を両親は最後まで守ってくれた。残されたのは、何もできない私だけだった。
そんな私ががむしゃらに鬼の頸を刎ねてきて、柱とあろう人間に開口一番、欲しかった言葉をかけられ、自然と涙が零れ落ちたあの瞬間は、かけがえのない彼との出会いだった。
煉獄さんは茜色が彩る瞳を丸くしながらも、辛かったな、と私の頭を優しく撫でてくれた。確かあの時も煉獄さんは、いいことも悪いこともこれからは全て俺に話すといい、と私を包み込んでくれた。
「名前?」
耳元で私を呼ぶ声に、真っ白に遠のいていた意識が引き戻される。震える私の背中に手を回して、心配そうに見つめる彼の瞳に映る私が、ひどく滑稽だと思った。
私は、この人の揺らぐことのない強く灯した遺志を継ぐことができずに、戦死したのだ。
「……ごめんなさい」
「……どうした、大丈夫か?」
「違うんです……、私、思い出し……」
「……」
無意識に出してしまった声を呑み込んだ。
何を、言っているんだ、私は。
明らかに様子が可笑しい私に煉獄さんは困惑している。違う、そうじゃない。私は、私を包み込んでくれた優しくて大きい手、柔らかく私を見て微笑むあの顔が大好きで、そんな表情をさせたいわけではない。
前世でも、私は師範のことが好きで、愛おしくて堪らなかった。けれど、そんな恋心なんて口にできるわけもなく、胸の奥底にしまい込んでいた。
それでも、そんな私を見透かすように師範は”あの日”の前日、言ってのけた。
─君は、俺のことが好きなのか?─
本人には、私の気持ちは筒抜けだったらしい。師範とは別に救援要請がかかった私は、継子となってから初めて別々の任務へ向かうことになった。そんな日に、私は何を思ったのか師範の羽織を後ろから掴んで、任務へ向かおうとするのを引き止めてしまった。
我に返り、また後で。そう話せば、師範は口角を上げて私に尋ねたのだ。
もう、知ってますと言わんばかりの表情だった。からかわれていると思った私は、恋焦がれる胸中を意地を張って隠した。
─べ、別に好きじゃないです!─
─……そうか、行ってくる。君のことだから心配はいらないが、無事でな─
私はいつも通りに任務を終えたというのに、"死ぬほど"後悔した。もう、その人は還ってこなかった。
それからは、私は抜け殻となっていたのだ。きっと、この空のどこかで見ているであろう師範は私のことを腑抜けだと思っているに違いない。わかってはいながら、私は生きる目的さえも見失ってしまっていた。
何の為に鬼殺隊に入ったのか、当初の理由さえも霞んでしまうほど、私は師範に溺れていたのだ。
そんな心持ちでいたから、思考力も欠如したまま鬼と対峙して、毒にやられて、私は死んだ。何とも、情けなくてみっともない人生だった。
恋も人生も、寒空に散る紅葉のように、儚く枯れ果てた。
「あの……、ごめんなさい」
今日は、少し休みます。
静かに告げた私に煉獄さんは私を気遣い介抱してくれるよう言葉を紡いだが、私は首を横に振った。一人になりたいと、素直に話せば眉を下げながらも了承してくれた。
私には、この人の隣にいる資格なんて、ないと思った。悠々と今、この人の隣にいれるような人間ではない。何を優しさに甘えて、微温湯に浸かっていたんだろうと、自嘲した。
あの人は、先ほどの様子からして前世の記憶がない。けれども、今後思い出さないという確証はない。そうすれば、私は彼に嘘を吐くことなんてできずに包み隠さず話してしまう。
あなたの死から、私はあなたの想いを継ぐことができなかったこと。あなたの想いを継いで、それを原動力にしていた隊士がいる中で、私はただの腑抜けとなっていたこと。
そんな人間、あなたが好むような人ではないし、何より私自身が己を恥じるべき人間だと感じていて、隣、いや、その姿を目にすることでさえ憚られる、私には程遠い存在だと思っていた。
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『連絡してなくてごめんなさい。話があって』
私に記憶が蘇って以来、彼を避けていた。『体調はどうだ』『心配だ』という連絡に私は曖昧に返し、『次はいつ会えそうだ』という連絡には返さないままだった。
正直、私は迷っていた。隣にいたいと思う自分も少なからずいた。でも、此の期に及んでそんなことを思ってしまう自分もまた嫌いになった。つくづく木漏れ日を貰ってしまいたくなる、甘えているなと、腑抜けただけはあるだなんて妙な納得さえしてしまった。
振り回して、ごめんなさい。気持ちの整理がついた。ずるずるずるずると、こんなことをしていてはこの人の、折角の生まれ変わった新しい人生に泥を塗ってしまう。
意を決して、私は電話をかけるとすぐに出てくれた。私が返事を無視していたというのにも関わらず、怒る素振りも見せず、いつも通りの声色で、『奇遇だな、俺もだ』と私に聞かせた。
別れ話を切り出されると、そう思った。それでよかった。
家に来るかと提案されたが、それは断った。近くの公園で話したいと言えば、それにも了承してくれた。最後まで、私には勿体無いくらいの優しい人だと実感した。
「これから先、俺と共に生きてほしい」
だから、まさか、こうして私に熱く真剣な眼差しを向け、小さい箱の中で煌めく宝石を差し出してくれるとは、思ってもみなかったことで。
ずっと前から変わらない、揺らぐことのない、強く意志が灯る真っ直ぐな瞳。
そこから私は目を逸らし、俯いた。
「ごめんなさい」
か細く震えた声が、他人の声のように耳に響いた。冷たい風が吹き抜け、俯く私の前髪を揺らす。
「……断られるとは、思っていなかったな。情けない」
息を吐きながら、煉獄さんはそう口にした。
違う、あなたは悪くない。情けないのは私なのだから。私の所為で、自分のことをそんな風に思わないでほしい。
「理由を教えてくれないか」
「理由、」
「君が話したいと言っていたことに関係があるのか?時間か?時間なら俺はいくらでも待つ。君以外は考えられない」
胸が締め付けられた。どうして、私は思い出してしまったのか。思い出したくなんてなかった。思い出さなければ、このまま私はこの人の指輪を受け取って、誰よりも幸せな未来を築けたと思う。
「(思い出したくない、なんて、また都合のいいことを……)」
「名前?」
「ごめんなさい……、理由、は、」
どうして、私はこんなに弱い人間なのだろう。誰かの温かさに縋り付いて生きていくことしかできない人間だ。
だから、離れてしまうのが嫌だった。でも、この人は、そんな人間が隣にいるような人ではない。もっと、相応しい人が沢山いる。
隣にいれる理由はないけれど、隣にいれない理由なら沢山ある。
視界がぼやける中で、頬が包み込まれる温かい感覚がした。見上げると、公園の街灯が緩やかに彼を照らしていた。滲む世界の中で捉えた光景に、私は顔を歪ませた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……!」
「この前から、君は謝ってばかりだが……」
「こんな私で、ごめんなさい……もう、会えない」
「っおい」
逃げるように私はその手を振り払い、背を向け走った。私といては、ダメだ。こんな自分が嫌で嫌で仕方なかった。過去も今も、私は変わらない。弱い人間だ。
息を切らしながら夢中で走り、徐々にスピードを緩め、足を止めた。白い息が冷たい空気の中に消えていく。
携帯を手にすると、画面には今しがた目の前にいた人の名前。それに出ることはせずに、鳴り止んでから、もうかかってこないように設定をし、その名前を連絡先から削除した。名前が消えた画面に、ぽたりと水滴が落ちる。
少しでも、私は、過去の自分を忘れてあなたといれて楽しかった。それだけで十分幸せだった。そう思いたかった。そう言い聞かせたかった。
悲しい時も苦しい時も、楽しい時も嬉しい時もあなたが言った通り、全てを共有していた。全て、それは儚くて愛おしい、哀しくて綺麗な思い出として心の宝箱にしまい込んで、鍵をかけたい。
たまに真っ直ぐすぎる眼差しを眩しいと感じていたのは、必然だったのかもしれない。
別々の道を進んでいく。それが、私と彼の相応しいあり方だと決めつけた。
「見つけた」
道の端で、動けずにしゃがみ込んでいた。街灯もない真っ暗な道で、私に声をかけたその人に肩を震わせた。
突然逃げ出した私に怒って見限るどころか、どうしてこんなにも寄り添ってくれるのか、私にはわからなかった。私は、あなたを困らせることしかできない。あなたの想いに応えることができなかったのだ。
「風邪を引くぞ」
私を無理に立ち上がらせるわけでもなく、煉獄さんは隣に腰を下ろしたのが僅かに感じる温もりでわかった。けれども、膝を抱えながら頭を埋めている私の手首を掴む行為は、もう逃がさないと言っているようだった。
「私が、悪いので……」
「それは俺に話してから、悪いか悪くないかは二人で決めよう」
嫌われないといけない。私は咄嗟にそう思った。
こうして、私はあなたに甘えて生きていくことはできないのだ。そんなことは、許されないのだ。
二度目、その手を振り払おうとした。けど、できなかった。私が振り払おうと腕に力を入れた瞬間、それを察して強く掴み直されたから。動かなかった腕に、顔を上げた先のその人は、暗がりで表情はよくわからなかった。
それが今の私には都合がよかった。思ってもないことを、言葉にできるから。
す、と身体が冷たくなる空気を吸い込み、呟くように告げた。
「好きじゃないので。……だから、もう、ごめんなさい」
ああ、前にもこんな風に嘘を吐いたな、と記憶は鮮明になっていく。この会話を最後に、もう二度とその姿を目にすることはなくなってしまった。後悔したはずの言葉を、こんな形でまた口にするなんて。
過去も未来も変えられないのだと、自嘲気味に悟った。
口走る私に対し、暫く反応がなかった。けれど、手首を掴んでいる力が、弱くなっていく気がした。
「……そうか」
「そう、」
です、と、投げやりに続けようとした言葉は、彼に懐に抱きとめられ、喉奥で止まった。温かい腕の中が心地よくて、その心地よさに溺れたくない私は胸が張り裂けそうになる。
「君は嘘が下手だな、昔から」
「……、」
「一人にして、すまなかった」
昔から。その言葉の真意に、鼻の奥がツンとした。逃げようとする私を、煉獄さんは決して放そうとはしなかった。
ほら、こうして、いつしかこの人も前世の記憶が何かの拍子に蘇ってしまうことは目に見えていた。この人は、私が一体どういう末路を辿ったのかは知らない。きっと、自分の継子であるから、自分が命果てても鬼狩りの使命を最後まで全うしたのだと、いつ如何なる時も真っ直ぐであったこの人なら思うはず。
「優しくしないでください、私は、腰抜けなんです。あなたがいなくなってから私、1ミリもあなたの遺志を継ぐことはできなかった。ただ、抜け殻だっただけなんです。誰になんと言われようと、立ち上がることができなかった」
「……」
「だから、私はあなたの隣にはいれない。相応しく、ないんです」
あなたの温かさを受け取る資格はない。
暗がりにいる私は、陽だまりから手を差し伸べてくれる彼の想いに手を取ることはできないのだ。
涙を堪えながら、震えた声で紡いだ言葉は、本音だった。哀しむことですら、烏滸がましい。どうして出会ってしまったのか。そうか、これは私に与えられた試練なのだと、勝手に納得させてしまう。
「君が俺を避ける理由が理解できてよかった」
返事のなかった煉獄さんは私を強く包み込む。言葉と、やっていることが裏腹だ。放してくれないと悟った私はもう逃げようとすることはやめた。けれど、煉獄さんは苦しいくらいに私を抱き締める。
「でも、納得はしていない」
「……」
「その過去は変えられないが、未来なら変えていける。何しろ、一人じゃない。君も、俺も」
死に際の言葉は、彼の継子である私が耳にするのは当然のことだった。泣きながら私に伝える様子に私は頭が真っ白になり、受け入れることができずにいたのだ。大事な人が失われて、その人の言葉を糧に刀を振るう者もいれば、私はそうではない人間だったのだ。
「折角、また君と会えて、何の隔たりもなく君と想いを通じ合わせることができたんだ。俺はこれを運命だと思っている」
どこまでも、強くて優しくて、温かい人だと思った。それは、私が勝手に決めつけていた未来を塗り替えるほどに。
「もう俺はいなくならない」
「……師範、」
思わず、無意識に呟いた私に、煉獄さんは一度私の肩を掴み引き離し、目を合わせた。すっかり暗がりに慣れてきた視界に映る瞳は、やはり少しだけ眩しい気がした。
「……私には、貴方の傍にいれる理由がないんです」
「なら、二人でやり直さないか」
「……」
「まずは、そうだな。プロポーズをやり直してもいいか?」
そっと、私を支えながら煉獄さんは立ち上がらせる。随分としゃがみ込んでいたので膝がふらつき、身を預けてしまった。片手で私の腰を抱きながら、煉獄さんは小さい輪を私の左手の薬指にはめていく。
手元は見ずに、ずっと私は煉獄さんのその表情を見つめていた。視線に気づいた煉獄さんは柔らかく微笑んだ。
薬指をなぞりながら、肩に手を置きそっと唇を重ねる。
「もう君を一人にしないと誓う。俺が帰って来た時に、おかえりと、そう言ってくれないか」
強く紡がれた言葉に、私は息を呑んだ。
自分が嫌いである日々は、今日で終わりにしたい。こんな私を想ってくれる人の為に生きていきたいと、強く胸に刻ませた。
「……私は、あなたに相応しい人になりたいです」
「ああ、今のままで十分だと思うが、君がそうなりたいと思っているならば、そうしてくれ」
その為に、俺は君に何ができる?と、溢れる私の涙を掬いながら聞くこの人に、私は自分のことが好きでいられる理由が見つかるような、そんな未来が灯る予感がした。
執筆:のん様 / テーマ:理由
素敵なお話をありがとうございました
(20/06/04 掲出)