ゆめのあとさき | ナノ


 08




 この日ノ本を、ゆるやかに蝕む“異変”。雄大な海は濁り、清爽な風は澱み、青々と育つ緑は枯れていく。土地を治める領主達は困り果て、民草はかつてない変事に怯えた。
 早急な解決を、と望まれている事が解っていても、有効な策はとんと浮かばず。“異変”が土地を荒らしていくのを、誰も彼もが手をこまねいて見ている事しか出来なかった。
「異変の話は、儂も聞き及んでおる。幸いにも、この甲斐では目立った異変は確認されておらぬが、南のほうでは、なんでも海が黒く濁り始めたとか」
「謙信様が治められる越後でも、目立った被害はまだ出ていない。しかし奥州では、腐臭を撒き散らす風が吹くようになったと聞いている」
「ふむ。こちらへ異変が到達するのも、よもや時間の問題、ということか」
「謙信様は、そのように考えておられる」
 信玄の元に、好敵手である軍神から使いが届いたのは四半刻ほど前のこと。かの軍神の懐刀と顔を突き合わせた信玄は、“異変”について知っている情報を、こうして互いに交換していた。
「つい先日のことだ。謙信様が夢を視られた」
「ほう、夢、とな」
「ただの夢ではない。謙信様は、天啓だと仰られていた」
 夢枕に立った毘沙門天の御使いは、謙信にこう伝えたそうな。
 曰く――まもなくこの日ノ本に、救いの主が現れる。それは清廉な女人であり、遥か遠き異世界から遣わされた刻の旅人。
 彼女は神に与えられし力を用いて、この日ノ本を蝕まんとする闇を打ち祓うだろう……と。
 軍神が、毘沙門天より加護を授けられし人間であることは、長い付き合いである信玄も存じているし、今更そこを疑ったりはしない。その軍神が視たという夢ならば、確かに。それは天啓であるのだろう。
 さて、ならばその“異世界からの刻の旅人”を捜さねばならぬか、と。信玄が口を開こうとした時。二人分の足音がこちらに近づいて来たのだった――


「……と、いう訳じゃ」
「な、成る程!では、つまり五葉殿は……!!」
「逸るでないわ幸村ぁっ!」
「ぐはぁあっ!も、申し訳ございませぬお館様ぁああっ!!」
 信玄の力強い拳が、幸村の右頬にめりりっ!と食い込む。あーあ始まっちゃったよ、と幾度となく見慣れた光景に肩を落とした佐助は、今頃ひとりで何をしているだろう、と。城に置いてきた彼女のことを思った。


 ――甲斐、上田城。
 ただぼうっと。呆けたような表情で頭の中を整理していた五葉は、ようやく緩慢な動作でそばに置かれた湯呑みを手に取ると、すっかり温くなったお茶を口に含んだ。
「……剣と、鏡」
 ふと思い当たって、若干薄暗くなってきた室内に視線を這わせると、部屋の片隅にそれらは転がしてあった。ここに連れ込まれた時には動転していて気づかなかったが、恐らく佐助あたりが置いておいてくれたんだろう、と思う。
「警戒してるくせに、武器なんか置いておいていいのかね」
 甘いんだかそうじゃないんだか、よくわからない。でも、どうせ私にはこんな大きな剣なんか扱いようもないし。現代人のひ弱な細腕を舐めちゃいけない。
「私はここで……なにをすればいいのかなぁ」
 鏡を抱えて、その鏡面をそっと撫でる。
 異世界の戦国時代。異世界だけでも無茶苦茶なのに、ましてや戦国時代なんて。自身の許容範囲をゆうに超えていた。
「今まで誰も救えなかった私が……誰かを救うなんて」
 無理に決まってる。そう思えば、胸元の御守りが熱をもった気がした。
「五葉様、お茶のお代わりをお持ちしました」
「あ、はい」
「失礼いたします」
 襖を開けて入ってきたのは、にこりと優しく微笑んだ小枝だった。まだ知り合って半日も経っていないが、彼女の笑顔はホッとする。
「ありがとうございます、何から何まで……すみません」
「いいえ、これが仕事でございますから」
 こぽこぽと注がれるお茶を眺めていると、小枝は静かな声で私に言った。
「五葉様は、少々謝りすぎでございますね」
「……え?」
「五葉様はなにも悪くないのです、卑屈になられる必要はありません」
「そう、でしょうか」
 でも。いきなり庭に現れて、なし崩し的に転がり込んで。幸村や佐助に迷惑をかけている。そんな考えを見抜いたのか、小枝は困ったように笑った。
「猿飛様はよくわかりませんが……、少なくとも幸村様は、五葉様を迷惑だなんて思っておられませんよ」
「でも、」
「困っている方に手を差し伸べる事を、当然だと思っていらっしゃるお方ですから」
 幸村が気持ちの優しい人物であろうことは、五葉にも容易く予想がついた。それでも、現代ではなかなかお目にかかれない情け深さに、戸惑いを隠せない。
「以前、女中の一人が、敵方の忍に襲われたことがあります」
「えっ!?」
「庭に潜んでいたその忍に、幸村様は気づいておられなかった。忍が放とうとした苦無を目にして……、咄嗟に、幸村様を庇おうとその忍の前に躍り出たのです」
 すごい忠誠心だ、と五葉は純粋に感心した。もし自分だったら、いくら咄嗟の行動とはいえ、そんな一瞬で相手を守ろうとする覚悟なんか決められない。
「苦無は、女中に当たりました。血を流し、倒れて土にまみれた女中を抱き上げて、幸村様は……泣いて下さったのです」
「……」
「なにを泣かれる事がありましょうか。幸村様を守れたのなら、その女中も本望だったはずです。女中のかわりなど、いくらでもいるのですから、幸村様がお心を痛められることなどないのに」
「……小枝、さん」
 急に、五葉は恐ろしくなってきた。この話は、一体どこに向かっているのだろう。他人事のように話ながら、どうして彼女はそんなにも熱に浮かされたような目をしているのだろう。
「あのお方は、本当に優しい方なのです。使い捨ての女中の為に涙を流し、女人が苦手でありながら、その身体を抱いてやる。本当に……やさしいかた」
「その、女中さん、は?」
「……」
 答えが返って来るまでの時間が、やけに長く感じた。小枝はなにをわかりきったことを、とでも言いたげな顔をして。今までで一番綺麗に笑った。

もうわかっているでしょう?



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