一人と一匹の暮らしはこれといった困難もなく穏やかに過ぎ去っていきました。
不思議なことに、子熊には木こりの言うことが伝わるようで、吹雪が身振り手振りをつけながら話すことを子熊はまん丸の瞳を向けてじっと聞いていましたし、吹雪の行動の一つ一つを注意深く観察しているようでした。外へ出てはいけない、村人に見つかってはいけない、台所でいたずらをしてはいけない。そのすべての言いつけを紺子はちゃんと守りました。
小さな獣が男を驚かせたのはそれだけではありません。ある日吹雪が「鍋はどこにしまったかなぁ」と独り言をもらしたのを聞きつけ、紺子が鍋のある棚をとんとんと指し示したときなんか、吹雪は驚きで鍋どころではありませんでした。
一つおかしかったことは、初めて会ったときに吹雪が被せてやった笠を気に入って外さないことです。その笠はまるで最初から子熊にあつらえたようにぴったりと馴染んで、よく似合っていました。
本当は、紺子の傷はすぐに治っていたのです。しかし、吹雪は紺子を山へ返すことができないでいました。いつの間にか紺子は吹雪の生活に欠かせない存在になっていたのです。吹雪はすでに紺子を獣として扱うことをやめ、人の子として接していました。夜、吹雪がいつもの夢を見て体中びっしょりと汗をかいて飛び起きると、離れて眠っていた紺子がそっと起きだして、吹雪にぴとりとついて丸くなり、吹雪はそれを抱き寄せてまた眠ることができました。
吹雪は紺子に様々なことを話して聞かせました。今日一日のこと、木こりの仕事のこと、村のみんなのこと、今はもういない、大切な家族のこと。そのたび紺子はまるでうんうんと頷くように首を振り、寄り添い、話の続きをねだりました。その中で、吹雪は紺子にいろいろな御伽噺も教えてくれましたが、中でも一番紺子の興味をひいたのが人間に化けた鶴の話でした。鶴は自らの羽で美しい織を作り上げ、それを贈ることで、助けてくれたおじいさんに恩を返したといいます。紺子も、その鶴のように吹雪に恩を返したいと考えました。人間は必ずしも紺子の敵ではないと、教えてくれた喜びを、紺子は少しでも返したかったのです。
けれども、紺子は熊です。手足が短くそれゆえに不器用な小さな小さな熊なのです。黒くごわごわしたこの獣の毛で何が作れるのかも、紺子には想像すらつきません(紺子は毛皮の絨毯というものを知りません)。
紺子がそれを思いついたのは、吹雪が枯れ落ちた木の葉を箒で掃き集めているときでした。柔らかい箒の先では濡れた葉っぱはなかなか集まりません。うーん、と吹雪が唸って言いました。
「こういうとき、熊手があればなぁ」
くまで。紺子は目の前に自分の両手を広げて、まじまじと見回しました。
これこそ熊の手ではありませんか!
鶴は自らの羽を、熊の紺子は自らの手を。なるほど、これ以上ぴったりの恩返しはありません。紺子はこの思いつきに飛び上がらんばかりに喜んで、うきうきと納屋へと走ります。木を切り倒すための大きな大きな鋸がそこに置いてあるのを、紺子は知っていました。
隣りで庭掃除を眺めていた子熊が突然とっとこ走っていくのを、吹雪は首を傾げて見送りました。じっとしているのがつまらなくなったのでしょうか。しかし、走っていく方向が納屋の方であると気が付くと、吹雪は顔色を変えて追いかけました。納屋には鋸やら鉈やらとっても危ない道具がたくさん置いてあるので、滅多なことでは他人を入れたりしませんし、当然小さなお友達も出入り禁止です。
すぐに目当ての鋸を見つけることができた紺子はしかし、大きな誤算があったことに気がつきました。熊の手では鋸の柄をうまく持つことができないのです。幸か不幸か吹雪はその意図に気がつかず、紺子をひょいと抱き上げるとその日は納屋の戸締りを厳重にして終わりました。

*

短い梅雨を終え、太陽がぎんぎらと照りつけるようになった夏の初めのことでした。村中で、吹雪が熊を飼っているという噂が囁かれはじめたのです。吹雪の家の敷地内からは出ないように注意していたつもりでしたが、やはり隠し通せるものではないようでした。その噂に対して吹雪は否定も肯定もしてきませんでしたが、ついに村長たちに呼び出されると、熊を飼っていることを認めざるを得ませんでした。それでも、吹雪は彼女がどれだけ無害であるか訴えたのです。人の言葉を解する稀有ないきものである、と。
しかし、村長や居合わせた村人たちは顔を伏せて、ためいきをつきました。村長は苦りきった声で吹雪を説得します。
「人の言葉がわかるようでも、そいつは獣なんだ。そんなのがうろうろしているとこっちは恐ろしくてたまらない。先祖を熊に食い殺されたやつだっているんだ。どんなに小さくても…吹雪、わかってくれ」
「そんな…」
「人に慣れた熊は人を襲う。生かしておくことは…」
ぞっとするほどの静寂が辺りを支配しました。吹雪は長いこと俯いて押し黙っていましたが、村人のひとりが痺れを切らして「吹雪くん、」と呼びかけると、木こりは震える指先をぐっと握りこんで、低く呻くような声を上げて言いました。
「…わかったよ。始末は、明日、僕が自分の手でつけよう。鉄砲を貸してくれ」
 
大きなまん丸のお月様が銀色に輝いた明るい宵の淵に、吹雪はそれを肩に担いで帰ってきました。その鉄砲――紺子が忘れたくても忘れられない――を見た瞬間、紺子はすぐに察しました。
(お前がどんなに人間を好きでも、人間がお前を好きになることはない)
――おかあさん。それでもこのちっぽけで愚かな獣は、人間に惹かれずにはいられない。
 
その晩の吹雪は始終えらく無口でした。時折紺子をじっと見つめては、ためいきをつき、手を止めてはなにか考え込むようでした。
吹雪がよろよろと床についたとき、紺子は暗闇の中でそっと台所へ足を忍ばせました。紺子はまだ吹雪に恩を返せていません。せめて最後にこの熊の手を贈らなければ、紺子は納得がいきません。たとえ吹雪が紺子を殺そうとも、吹雪と共に過ごした日々は、その得がたい喜びは、覆ることはありませんでした。
大きな出刃包丁の置いてある台まで伸び上がって手を伸ばすと、なんとか取ることができました。柄を手で掴むことができないのは承知していますので、口にしっかり銜えると、自らの腕に突き刺そうとしたまさにそのとき、物音に気づいて起きだした吹雪が紺子をとらえました。
「なにをやっているんだ」
最初吹雪は、暗がりで紺子が何を銜えているのかよく見えませんでしたが、目が辺りに馴染むとそれが出刃包丁であったことに気がつき、子熊を止めていた腕がだらりと下がりました。
「僕を、恨んでいるのか」紺子は包丁を銜えたまま、首を傾げました。「それなら、それでいいんだ。でも、村のみんなには手を出さないでほしい。そうなれば、彼らは一致団結してきみを殺そうとするだろう…」
人の言葉を喋ることのできない紺子が包丁を捨てて吹雪の胸に飛び込むと、吹雪は紺子をぎゅっと抱きしめて涙を流しました。
自分を抱えて男泣きに泣き崩れる吹雪に、紺子は目を点にするほかありません。どうして吹雪が泣いているのか紺子にはとんと見当がつきません。こんなにもやさしくて素敵でさびしくて悲しい吹雪のためなら、紺子は何を差し出したって構わないのに。
きつい腕の中でよじよじと身を捩って、紺子はその鋭い鍵爪がどこへも当たらないように、そうっと気をつけて両の手を吹雪の顔の方へ差し出しました。
さあ、さあ、どうぞこの手を切り落としてください(もしもこのとき紺子に人の言葉が喋れたら、それこそ吹雪を絶望の谷底へと叩き落としたことでしょう)。しかし吹雪はその手を取ると、刃のかわりにくちびるを落としました。
「僕にきみが、殺せるわけがない、できるわけがないじゃないか、だって僕は、」
 
「こんなにも、きみが好きなのに」
 
紺子は熊です。熊のおかあさんがいて、山に住み、人間とは交じり合うことのできない熊の子供です。しかし、紺子は思いました。このひとと生きたい。同じ人間として、喜びも悲しみも分かち合いたい。
そのときでした。目の眩むような不思議な白光が子熊の体を覆いつくし、吹雪の体や台所の隅々まで真っ白に塗りつぶし、吹雪が目を開けていられずにぎゅっと閉じていたわずかな間。やわやわと目を開くと、小さい子熊の姿はどこにもありませんでした。そのかわりに、小さい女の子が、子熊によく似た黒い瞳を丸くして彼を見上げていました。
そう、紺子はもともと人間だったのです。山に捨てられるときに熊として生きるまじないをかけられて、それ以来ずっと熊として生きた人間でした。一度人間に捨てられ、殺されかけ、それでもなお、人間として生きたいと願う紺子の強い気持ちがまじないを破ったのでした。
 
それから二人は夜が明けるまでたくさんのことを話し、朝日を浴びながら手と手を握り合い、二人で村長のもとへ歩きました。
きっと誰も信じてくれないだろうね、なんて、笑い合いながら。