その子熊には自分の名前がありました。紺子という、おかあさんが名づけてくれた大切な名前です。
おかあさんは、紺子の本当のおかあさんではありません。本当のおかあさんは、紺子を産んですぐに病死してしまいました。二番目のおかあさんは、まだまともに立つこともできない紺子を山に置き去りにしました。紺子は、この二人のおかあさんのことをよく知りません。紺子が知っているのは、三番目の熊のおかあさんでした。
熊のおかあさんは紺子にいろんなことを教えてくれました。食べれるもの、食べれないもの。土の掘り方、根っこの在り処、獲物の捕らえ方や、強い敵に会ったときの逃げ方など。中でも一番言い聞かせたのが人間には近づかない、ということでした。おかあさんは、人間についてあまり教えてくれませんでした。どうにも話題に上がるだけでそっぽを向いてしまうのです。それでも、紺子は人間を、遠巻きに眺めることをやめませんでした。不思議なことに彼らが何を喋っているのか、紺子は聞き取ることができるのです。これは、おかあさんにはできないことでした。
「お前がどんなに人間を好きでも、人間がお前を好きになることはない」
紺子が人間の傍へ行こうとするたびに、おかあさんは苦い顔をして紺子を咎めました。その忠告は紺子の心を重たく縛り付けました。人間の姿を見るたびに、紺子はどこかへ帰らなければならないという焦燥に駆られるのです。お山のねぐらでも、木の上の隠れ家でも、紺子の知っている世界のどこでもないどこかです。きっと彼らはそれを知っている。紺子もそれを知らなければならないと、なぜかそう思えるのです。
 
鉄砲を持った男たちが熊の親子を取り囲んだのは、雪解け水が小さな川を作った春の日でした。
右から左から、ダァン!という大きな音が二匹を追い詰めました。熊のおかあさんは自分にひっついて離れない紺子をむりやり立たせて、かつて聞いたことのない、割れんばかりの大声で逃げろと叫びました。それでもぐずぐずしていると、おかあさんは紺子の背をどんと押し出しました。そのとき銃弾が紺子のわき腹を掠めて、その痛みと熱さに子熊は悲鳴を上げて走り出しました。
走って走って、紺子の知っている山を通り越しても、深い悲しみと混乱が紺子の痛む体を急かしました。やはり人間は敵なのでしょうか。紺子とは相容れない遠い存在なのでしょうか。なにが紺子を呼びかけているのか、この心がどこへ帰りつこうとしているのか。体中がばらばらになりそうな悲しみの正体は。どうか教えてほしい。それでなければ紺子はどこにもいけない、なにものになることもできない。

*

「里へ降りてはいけないと言ったじゃないか」
男の優しい声が、遠ざかっていた子熊の意識を手繰り寄せました。はたと気がつくと、紺子は吹雪に抱きかかえられてあぜ道を歩いていました。傾きかけた太陽が山の向こうへ沈んでいくのが見えます。
紺子が里へ降りてみようと思ったのは、吹雪と出会ったからでした。あの日、吹雪と触れ合ってから、人間をもっとよく知りたいと思ったのです。
「きみは…人が怖くないの?どうして憎まない?復讐を考えたことは?」
もちろん考えました。彼らがやったことを許すことなどできないでしょう。それでも、すべての人間がそうであるとは、紺子には思えないのです。紺子がそれを判断できるほど、人間のことを知りません。
「僕は、」淡々と響いていた吹雪の声が震えました。「僕はね、雪崩で家族を失った。轟音が恐ろしい。物が落ちる音が、覆いかぶさってくる黒い影が、重く冷たい雪が、恐ろしくてたまらない。
そしてなにより憎いのは僕自身だ。僕にもっと勇気と、機転と、それを叶えるだけの力があれば、父さんは、母さんは、アツヤは…」
それは、吹雪の中で何百回、何千回と思い描いたことでした。何度夢に見て何度打ちのめされたことでしょう。周りの人たちはみんな、仕方のないことだったと、吹雪のせいではないと慰めましたが、それでも吹雪はその思いにしがみ付いて離れられません。
ふと、腕の中の獣がそっと頭を吹雪の胸に擦り寄せました。陽だまりを抱くように、暖かいそれを、吹雪は大切に抱えなおして、日の暮れた帰り道を急ぎました。
「傷が治るまで、僕の家に匿おう。村のみんなには内緒だよ」