※ルト菊前提菊+フランシス
 
「いやだよ、俺、第一発見者なんて」
じーじーじわじわと耳の穴から直接脳を削る蝉の鳴き声の合間に、呆れ返った男の声がした。ああ、面倒くさいのが来たぞ、と、菊は完全に自分のことを棚に上げて、本当に苦ったらしい思いで重たい目蓋をこじ開けた。長く瞑っていたせいで薄ぼんやりした視界の中、いつかどこかで見た見事な麦畑から切り取ってきたよなきんきら頭の男が、自堕落に寝転んだ自分を覗き込んでいるのを、また薄ぼんやりと認識した。
「あ、生きてた」
自邸のひんやりした廊下の床にしどけなく頬を当てていた菊は、思考もどこかぼんやりさせたまま男をちゃんと見ようと顎を上げた。そうすると男――フランシスは苦笑いを噛み締めた顔でなんとか気取ってみせた。
「生きていたなら改めまして、ボンジュール。床板に寝転ぶのが流行なのかな」
「はいはい、ボンジュール。若者についていくのは骨が折れます」
「それはご苦労なこった。しかし客人を放っておくのはお兄さん感心しないな」
勝手に玄関の引き戸に手をかける前に、フランシスは二十回は呼び鈴を鳴らしたのだ。「招いてませんもの」と菊がつんとそっぽを向いた。
「ルートヴィッヒはいないのかな」
子どものような振る舞いをする彼にフランシスは肩を竦めさせただけで、答えのわかる質問をした。彼がいたなら呼び鈴を三回押した時点で確実に家に入れたからだ。
「優しさが私を脅かすのです」
「ああそうかい」
つまり追い出したということだ。久しぶりの逢瀬だっただろうに、とフランシスは彼に心底同情した。
菊は時々強烈にすべてのことに嫌気が差すのだ。
なにも復讐を誓うわけでも嫌悪を主張するわけでもなく、そうチンケな言い回しをするなら美学のために、すべてを捨て去ってしまいたかった。そして今回のそれは愛しいルートヴィッヒも例外にはならなかったらしい。えらく普遍的である。馬鹿げているには違いない。目の前にいるのが彼でなくフランシスであることに菊は腹から笑い出したかった。それが出来ないのは偏に彼がここにいないからだ。何と言って追いやったのかすら、もう覚えてなかった。悲しそうなアイスブルーしか思い出せない。
「ねえ、フランシスさん、一緒に逃げてくださいませんか」
その時そんなつもりまったくなかったのに、菊は努めて声を低くして誘いをかけた。まるっきり、どうかしているのだ。それは菊自身よくわかっていたし、フランシスにもちゃんと伝わった。フランシスは返事もせず「どれどれ」と興味本位で菊の顔を窺った。ぽっかりと虚空を写す闇は、存外に澄んでいて、覗き込めば自分の顔さえうっすらと認識出来た。なにか心を動かされるものがあったらしい。フランシスがそれから視線を外せないでしばらく経つと、筋肉の削げ落ちた細い腕がそろり持ち上がる。群青色のふたつの目は胡乱げに菊の頭の先から爪の先へと揺れていった。そしてからフランシスはふと、自分はこの可哀想な人を抱き締めなければならないのかもと思い、ああいよいよ気狂い染みてきたと自分自身におかしく思った。
この時だけフランシスは本当に、愛してもよかったのだ。
「なあ、菊。俺は…」
渇いた声はちっとも響かずに、意識の上を滑っていくだけだった。
「俺は、ともすると、とんでもなく臆病者なのかもしれない」
首の裏を汗が伝った。それにしても暑い。菊の細い腕はなぜか見る方の胸を痛ませた。着物のゆったりした袖が下へずれ落ちてそれがすっかり剥き出しになってしまうと、フランシスは堪えられない心持ちになってしまって、長身を屈めてバター色の指先を絡めとった。
「だからさ、少しの間、目を閉じておいてくれ」
そしたら、どこへでも、連れて行くよ。
耳触りの良い言葉を選んだ異邦人に、菊はついに寝転んだまま「ああ、それもよいかもしれませんね」と嘯いた。不意に重力が増した。フランシスは諦めたように右足に重点をずらしたし、虚空はとうとう瞼を閉じて、菊はうっそりと思考の海に沈んでいった。