ステップ1:手を繋ぐ
 
ルートヴィッヒはしばらく眉間に深い皺を作ってうんうんと唸っていたが、すぐに決意を固めると、読んでいた薄っぺらい本に丁寧に栞を挟んでテーブルに置いた。そしてソファの隣りに座って、突然唸りだした隣人を何事かと目を丸くして見やる菊に、ずいっと手を差し出してみせた。
「あの…なにか?」
意図を掴めず首を傾げた菊に、ルートヴィッヒは大変動揺して(なぜなら首を傾げた菊というのは、とてつもなく可愛いらしいので)、顔を正面に向けたり横に向けたりしながら、ようやく「手」とだけ言った。
「はあ…」
そりゃ見ればわかりますけど。つい口を出そうになった言葉を菊は慌てて飲み込んだ。きっと彼にも何か考えがあるのだろう、無粋な真似をして呆れられてしまうのは嫌だ。菊は先ほどのルートヴィッヒそっくりにしばらくうんうん唸ってから、何か思いついたのかぱっと顔を輝かせて、そのがっしりとした広い手のひらの上にぽんとグーの形に丸めた手を乗せてみた。
「いや…」
確かに、「手」だけども、それはなにか違う。ルートヴィッヒは何と言おうかと悩みながら菊を見やって、ぴきりと固まった。菊は、まるで難しい問題を解いてみせたと言わんばかりに、至極満足そうにほわほわと微笑んでいたのだ。ルートヴィッヒの飼い犬がフリスビーを咥えて戻ってきたときの顔にそっくりだった。固まったままのルートヴィッヒの視線に気づくと、菊はほわほわ微笑んだまま、「これでいいですか?」と聞いた。その首傾げるのもうやめろ、とルートヴィッヒはくらくらする頭で思いながら、「うん」だか「ああ」だか適当に頷いて菊の黒髪をわしゃわしゃ撫でた。

 
ステップ2:抱き締める
 
さて。ルートヴィッヒは気を取り直してもう一度本に向かっていた。さっきのは多分、言葉が足りなかったのだ。成功とは言えないが、失敗とも言いがたい。ルートヴィッヒは確かに少し、しあわせになっていたのだった。
あーでもない、こーでもないと再び唸りだした隣人を、菊はわしゃわしゃにされた頭をそのままに、興味深そうに眺めながら温くなったコーヒーに口をつけた。彼が熱中して読んでいる本はどこかの書店のカバーがかけられていて表紙が見えない。不思議には思ったが、唸りつつもどことなく楽しそうなルートヴィッヒに横槍を入れるのも野暮だろうと、菊は菊で読みかけていた推理小説のページを捲った。
二・三ページほど進んだところで、菊はふと隣りの様子がおかしいことに気がついた。やたらチクチクと視線が刺さる。菊は活字に注目しながらあれこれ考えてみたが、どうしても理由が思い当たらない。服はいつもの白いシャツに黒のスラックスだし、読んでいる本だってルートヴィッヒ本人から薦められたものだ。ああ、そういえば。菊は思い出して納得した。髪の毛をぼさぼさにされたままだったのだ。急いで手櫛で揃えながら、隣りに照れ笑いを投げかける。
ぱちっと合った視線に彼は大げさにうろたえて、読んでいた本をばたんと音を立てて閉じてしまった。また不思議そうに丸まる菊の目を見れなくてルートヴィッヒはおろおろ視線をさ迷わせながら、大きな溜め息をついて閉じた本をテーブルに投げ出した。
「ルートさん?」
「やはり、こういうのは苦手だ」
そう小さく呟くと、ふらふらと覚束ない足取りで部屋から出て行ってしまった。ぱたん、と寂しい音を立てるドアに菊は少し眉尻を下げて、テーブルに投げ出された薄い本をそっと手に取った。カバーを外して表紙のタイトルをじっくり三回読み直すと、菊は普段の彼らしくもなく乱暴に本を放り投げて慌ただしくルートヴィッヒの後を追った。そして台所でガタイに似合わずしょんぼりと肩を落とす愛しい恋人の背中を見つけると、精一杯背伸びをして抱き締めた。

 
ステップ3:キスをする
 
「ほら、いつまでも拗ねてないで、こちらを向いてくださいな」
背中を向けたまま振り返ろうともしないルートヴィッヒに菊はその広い背にのの字を書いた。恋愛指南書なんて読んであんなに唸っていたのかと思うと、愛しさで胸がきゅんと震える。長かった片思い期間を思い出して、菊はへらりと口元が緩むのを止められなかった。
ふふ、と漏れた笑い声に彼の背中がぴくりと揺れる。赤い耳たぶを見上げると搾り出したような声が聞こえた。
「………子どもっぽいと思ってるだろう」
「可愛らしいとは思いますけど」
正直に言ったらますます背中が丸くなった。
「そんなあなたを愛しているのです。ねえ、こちらを向いて」
菊がなんとか笑いを引っ込めて真摯に語りかけると、ようやく赤い顔がこちらを向いた。
春の空のような柔らかい水色がゆらゆら揺れているのを見てとると菊は思わず口付けしたくなって、改めてこの体格差を悔しく思った。
「キス、しませんか」
菊がまたもや小首を傾げてそんなことを言うものだから、ルートヴィッヒは本当にたまらなくなって、じっと菊を見つめながら「からかうつもりならやめてくれ」と、真っ赤に染まった情けない顔で言った。
「まったく、どうしましょうねえ…」
ルートヴィッヒのそれより二周りは小さい手を彼の頬へ当てながら、菊は小さい子を相手するときみたいに困り顔で笑う。そしてから、彼の首元に手をかけたかと思うとぐいっと力強く引っ張って、降りてきたルートヴィッヒの頬にちょんとキスをしたのだ。
「ゆっくり行きましょうね」
ぽっと赤くなりながら優しく微笑む恋人に、ルートヴィッヒは悲鳴を上げる心臓を放っといて全力で抱きついた。あまりの力に菊は「苦しいです」と声を上げるかどうか迷ったが、彼の心臓の音に気がつくと、もう何も言えなくて、息を詰まらせながらそっと抱き締め返した。
 
実は彼らの隣りで黙々とザッハトルテを作っていたローデリヒは、クリームをかき混ぜながら、どうやってこのおバカさんたちを台所から追い出そうかと延々悩んでいたのだった。