ちょっと大人なセインとリカが同棲してる話
 
 
その辺で見繕ってきた三足千円の靴下は、誰かに見られることもなければ評価されることもなかった。今日の彼はぶたさん柄の靴下である。箪笥に手を突っ込んで適当に引っ張ったらこれだった。おかしいと、笑う人もいない。
セインは無造作にゴミ袋の口を絞めて玄関の隅に置いた。収集車が来るまでまだ余裕があった。ここに住みだして初めのころはゴミ出しの時間など知らず、朝も早くからさっさと出してしまっていた。そのことについてご近所さんから厳重注意を受けている。
彼はゴミ袋を置いたきり玄関先で思い悩むふうだったが、はたと思い立つと足早に台所へ寄った。味噌汁を作らねばなるまいと気づいたのであった。今朝のセインの朝食は食パン一枚だったし、特別に味噌汁が好きな訳でもなかったが、彼は小さな鍋を取り出すと一人分の味噌汁を作るために水道の蛇口を捻った。
(一人分といっても、セインはそれより多く作りすぎてしまう。今も社会通念上一人分とは言い難い量をそ知らぬ顔で作ろうとしている。彼にとっては三杯の味噌汁も一人分の勘定なのだ)。
 
「せーい〜ん」
ガチャ!とドアノブが回る音と共に玄関から間抜けな声が響いた。セインは驚く様子もなく、ただ淡々とおたまで出汁と味噌をかき混ぜていた。具はワカメしかなかった。なぜなら冷蔵庫にそれらしいものがワカメしかなかったからだ。
「たっだいまぁ」
たおやかな腕がきゅっとセインの腰に巻きついてきた。「何作っとるん」セインの肩越しに鍋の中身を覗き込む。
「リカ」
「ん?」
「…遅い」
「えー?道子たちとオールって、メールしたやん?寂しんぼやなほんま」
リカはセインに抱きつきながら「よ〜し、よ〜し」と子供をあやす様に体を揺らした。やめろとも言えず(何しろ心地よかったので)、セインは口元をぐっと引き下げた。せっかくの怖い顔も耳まで染まった赤で台無しではある。
「酔っ払いめ!」
セインの悪態なんかリカは気にしない。彼女はふーんふんふん、と抱きついたまま不明瞭な鼻歌を機嫌良さそうに口ずさんでいる。
セインはちらりと時計を見て、とうとう溜息をついた。
「リカ、私はそろそろ出かけねば」
「ほおい」
「…味噌汁を、作っておいた。好きなときに飲め」
セインは俯いて、手元の鍋を覗き込んだ。もちろん味見などしていない。いつもしない。自分で飲むこともない。けれど、毎朝作る。リカがおいしいと言うので、セインはそれで良いと思っている。
「ほんま、私な、ほんまに」
彼のへその上で組まれた指に、ぎゅっと力が篭った。囁かれた言葉があんまり急に小さく揺らめいたので、泣いたのかと思った。
「リカ…?」
セインが振り返る前に、遠くでゴミ収集車の陽気な音楽が鳴る。
 
その日の夜はリカがいつもよりちょっと豪華な夕食を作って待っていた。今朝の一瞬の戸惑いを上から塗り潰すみたいに、リカはやけに明るかった。
「あっ、あんたまーたそれ履いてるん」
リカがけらけら笑いながらセインの靴下を脱がした。「ぶたさんて!似合わんし!…いや、逆にあり?」靴下を眺め一瞬真剣な顔つきになったが、すぐにぽいっと投げた。
「誰も何も言わない」
「そら誰も見てへんからや」
リカが見れば充分だ。セインは声に出さずに思った。彼の素足が所在なさげに組まれた。おふざけで塗り合いっこしたペディキュアが間抜けにぴかぴかと光っている。
リカの爪先は、散々「下手くそ!」だの「はよしい!」だの「あーっ、またはみ出した」だの、わあわあと囃され続けてやっと塗ったセインの力作である。とは言っても、やはりあちこちはみ出していたり気泡が出来ていたりして、リカがセインにやったようには出来なかった。てっきりすぐに塗り直されるものだと思っていたのに、リカは「どうせ見えへんし」と言ってそのままにしていた。セインはそっと彼女の爪先に触れてみる。エナメルの滑らかな感触が指に気持ち良い。「くすぐったいやん」と足を引っ込めたリカが笑った。
「夏になれば」
「うん?」
「サンダルを履くんだろう」
「せやけど、…あんたがサンダルゆうと健康サンダルしか思いつけん」
「見えてしまう」
遠のいた爪先をセインが目で追い駆けている。色の飛び出した不恰好な秘密。悪戯が見つかってしまった子供みたいな顔の彼を、リカはくしゃりと笑ってその爪先で突いてやった。