※ちょっと大人(のよう)な吹雪と紺子が同棲してる話
※若干吹雪が超次元
 
洗濯機のタイマー音と共に、吹雪は瞬きを繰り返して目が覚めたことに気が付いた。変な姿勢でうたた寝をしたようで、体のあちこちが硬くなってしまっている。腕を伸ばしたら小気味の良い音がした。カーテンを開けたままの窓の外は暗く、雨が降っている。吹雪は息を吸い込んで、そのまま少し、目を左右へ流し、ゆっくりと息を吐いて、また目を閉じた。
静かだった。
紺子がこの部屋を飛び出してから、吹雪は何もする気が起きずにぼうっとソファに沈んでいた。どれだけの時間が経ったかはわからない。ほんの2、30分のようであり、何時間も過ぎたようでもある。時計を見ないのは、時間の経過を確認したくないせいだ。吹雪の時間は紺子が玄関を出てから止まったままである。
一瞬のことだ。そのとき吹雪は不慣れな手つきで洗濯機に入れる洗剤の量を測っていて、紺子は台所で夕飯の支度をしていたはずだった。ボトルキャップのメモリを眺めて、入れすぎたかもしれない、と吹雪が思い直した瞬間、やにわに紺子の悲鳴が聞こえたかと思えば、玄関のドアが慌しく閉じる音が大きく響いた。吹雪は洗濯機の中に洗剤をボトルごと思い切り落として、落としたことにも気づかないまま玄関まで飛んでいった。紺子の姿はもうどこにもなかった。
(今まで、僕に黙って出かけることなんてなかったのに。)
その後の自分の行動を吹雪はしっかり覚えていない。玄関から戻ってきて最初に洗濯機のボタンを押したような気がしたが、一体何のボタンを押したかまで記憶にない。洗濯機の中に洗剤を落としたままだとか、蓋を閉めてないだとか、そんなことに吹雪はちっとも気を止めてない。ただ、紺子に洗濯を頼まれていたので、その使命感だけで体が動いただけだった。
(携帯電話は充電中のまま居間に置きっ放し、財布は見当たらない。…ああ!すぐに走って後を追うべきだった。僕は何だって洗濯機なんか気になって戻ってしまったんだろう。)
吹雪は薄目を開けて、誰もいないひとりぼっちの部屋を見渡した。この部屋に一人でいるのは初めてだ。いつもどこかに紺子がいて、鼻歌や掃除機をかける音、ご飯の支度をする音が聞こえて、吹雪はそれを手伝ったり、後ろから眺めるだけだったり、時々邪魔したりして。そんな部屋で、吹雪は今、ひとりぼっちだった。
 
突然のチャイムの音に、吹雪はびくりと肩を揺らした。また長いことぼうっとしていた気がする。急いで立ち上がって玄関まで行くと、何の心積もりもなくドアを開けた。見慣れた小さい姿がにっこり笑いかけてくるのも、両手に持った水滴だらけのビニール袋を玄関先に置くのも、吹雪はドアを開けたままぼうっと見守っていた。
「ただいま!ごめんね、鍵忘れてたべ」
「……紺子、ちゃん」
「吹雪くん?…どうしたべ、ぼうっとして」
「…っ紺子ちゃん!」
吹雪はドアを乱暴に閉めると、紺子を力一杯無茶苦茶に抱き締めた。
「わっ!吹雪く…、くるし…離し…」
「嫌だ、もうどこにも行かないって約束してくれなくちゃ嫌だ!」
「ええっ?な、何が…あったべ…」あんまりに絞められて紺子は意識が薄れそうである。吹雪はというと、もう本当に一生懸命に紺子を抱き締めていて、そのこと以外の些細なことすべて頭から抜け落ちている具合だった。紺子が中々約束してくれないのに焦れて、一層力を込める。
「約束!早く!」
「す、する!約束しますっ!」
 
ぜえぜえ、と紺子は全力疾走したあとのように息を切らして玄関先に座り込んで、そうさせた張本人の吹雪はどこか満足そうにその背中を撫でていた。
「で、どこ行ってたの」
声に若干の棘がある。紺子はむっとした顔で吹雪に向き直すと、隣に置いてあるビニール袋を指差した。
「すぐそこのスーパーまで買い物に行ってただけだべ!」
「えっ」
一気に脱力した。確かに、荷物で膨らんだビニール袋にはスーパーのプリントがされている。すぐそこのスーパーといえばゆっくり歩いても片道10分も掛からない、ごく身近な所である。実のところ紺子が部屋を飛び出してから一時間も経っていないのだ。
「で、でも、急に飛び出して行って…」
「今日特売日だったの忘れてて、慌ててたんだべ」
「………」
「……吹雪くん?」
吹雪はすっかり意気消沈した様子で、俯いたまま紺子の横で片手で顔を覆った。もうひとつの手で紺子の手を握るので、紺子はおろおろと握り返すしかなかった。
「吹雪くん」
「…僕、だめなんだ。こんなに依存したらいけないって、わかってても、だめだ。きみがいないと、僕は…」
「吹雪くん、ごめんね。私、すぐ戻ってくるからと思って…」
「もう黙って行かないで」
「うん。…本当にごめんね」
「――だめ。許さない」
それまで弱弱しく掴まれていただけだった手にぎゅうっと力が篭る。「え?」言うや否や、あっというまに紺子の小さな体は吹雪の腕の中に戻っていた。さっきまでのような無茶苦茶な抱き締め方でないだけましであったが、紺子にはしっかりトラウマになっている。不穏な空気を感じて紺子の顔が引き攣った。
「ふ、ふ、吹雪、くん?わ、私、そろそろお夕飯の支度しなきゃ!は…離してくれないと…作れないべ…」
「だめだってば。許さないって言ったでしょ。今日は寝るまで僕の腕の中にいて!」
「う、動きにくいべー!」
紺子がいくら嫌々と首を振っても、じたばたもがいても、吹雪は涼しい顔で笑っただけだった。
「本当なら一生腕の中に監禁したいところだけど、今日だけで許してあげるよ。僕って大人だね?」
「………」
紺子は目を瞑って、一生懸命に聞こえなかった振りをした。
 
吹雪が洗濯機のことを思い出すまで、あと丸一日は掛かりそうである。