夏休みに入ってから紺子ちゃんと僕は頻繁に遊びに出かけていた。白恋のみんなと遊ぶことも多いけど、こうやって二人きりで出歩くのも珍しいことじゃなかった。最近では自然に手を繋げるようになった。二人で手を繋いで一日中街をぶらぶらするだけ。それだけのことが楽しくてしょうがないんだ。

そう、今日もそんな一日だったはずだ。なのに、今僕らは二人して俯いて押し黙っている。
「………」
「………」
僕らはいつの間にか変な道に入り込んでしまっていた。
派手なイルミネーションの建物がずらずらと並ぶ狭い道にはカップルが何組もいて、まだ夕方だというのに道の真ん中で恥も外聞もなく抱き合ったりキスをしたり、仲良く建物に入っていったりしている。そんな中、僕たちの間では口数がめっきり減っていっていた。繋ぎ合った手はお互い熱っぽく手汗でべとついていたけれど、どちらのものかわからない熱の正体を敢えて暴くようなことはしなかった。大体、今更こんな場所で冗談でも離せない。僕は目のやり場に困って視線をうろうろさせながら、紺子ちゃんは黙り込んで俯いたまま、僕から離れないよう早足に歩いている。
「…カップル、多いね」
「…うん」
それだけの会話をやっとの思いで交わすと少しほっとした。改めて周りを見回す余裕が出来ると、僕はようやく、この奇天烈なデザインの建物がラブホテルだということに気がついたのだ。おぼろげな知識でしか知らない大人の世界。興味がないと言えば嘘だ。クラスメイトやチームメイトが持っていた、いやらしい雑誌にも、目を通したことがある。自分とは無関係の遠い世界の話のように思えていた。しかし現実は今もホテルの狭い入り口に若い男女が入っていく。これからそういうことをするんだろうか、するんだろうな。その二人の後ろ姿が妙に目に残って僕は何やら恐ろしくなった。既にがっちり掴んでいた紺子ちゃんの手をもう一度しっかり握り直す。
「この道、早く通り抜けよう」
「うん」
歩く速度をもう少し早くしたとき、ふっと『料金表』と書かれた看板が目に飛び込んだ。それを見た瞬間、僕は知らず知らずの内に財布にいくらあったか思い出そうとしていた。
どきりとした。
僕にも払える額だ。急に繋いだ手を意識してしまう。僕の手に丁度良く収まっている白くて小さな手。熱くて湿っていて力強く握り返してくる紺子ちゃんの小さな。
僕は、僕は、――僕は、なりふり構わず走り出した。手はしっかり繋いだままで(ばかだと思うかもしれないけど、このとき僕は本当に手の離し方を忘れてしまっていたんだ)。
僕に引きづられて紺子ちゃんは戸惑った顔で転びそうになりながら僕の斜め後ろを走った。
「ふ、吹雪くん!?」
紺子ちゃんの呼びかけに答える余裕も心構えも何もなかった。心臓がばくばくいっていて、この早鐘を気づかれやしないか、頭に過ぎった恐ろしい考えを悟られやしないか、そればかり気になって、しゃにむに走った。周りのカップルはそんな僕らのことなんてこれっぽっちも気にならないようだ。僕らはそうやってこの狭い通りから逃げ出したのだ。

通りを抜けて適当に曲がっていくと閑散とした公園に辿り着いた。夏休みだというのに誰もいない。いつもなら寂しく思うのに、今はそれが助かった。僕たちは肩を寄せ合ってベンチに座った。きつく手を掴んだままで、紺子ちゃんは忙しなく息をつき、僕は目を瞑った。深く息を吸い込むと夏の匂いがした。
「…吹雪くん、大丈夫?」
まだ乱れた息のまま、紺子ちゃんはやっぱり俯いて僕の心配をした。僕は何故か苛立って、「僕なんか、平気だよ」と吐き捨てるように言ってしまった。すぐに後悔した。僕の心配なんかより、もっとずっと心配すべきことがあるんじゃないのか。こんな僕なんかよりもずっと。
「そっか」
紺子ちゃんが小さな声で言う。小さな体を余計に小さくさせて。僕はますますどうしようもなくなった。
「ごめん」
「なんで、」
「ごめん…」
紺子ちゃんはずっと困った顔だ。僕がそうさせているんだ。わかっている、でもどうしようもない。いやらしいことを考えてしまった。自分が信じられない。紺子ちゃんはどこまで知っているんだろう。まさか何もかもお見通しだったりするのだろうか。大人の世界も僕の動揺も全部。まさか!僕は恐る恐る尋ねた。
「ねえ、紺子ちゃん。さっきの建物、何だか知ってる?」
「建物?」
「カップルがたくさんいた通りの」
「あ…」
紺子ちゃんの頬がぽっと赤くなった。まさか、まさか、まさか。強張る僕の横で紺子ちゃんは気を取り直すようににこりと笑った。
「で、でも、電飾とか、すごかったべ!ピンクだらけの可愛いのもあったし、お城みたいなのもあって驚いたべ。吹雪くん、あれ何だか知ってるべ?」
「………紺子ちゃん!」
「ふぇっ」
(ああ、わかってなかった!紺子ちゃんは何にもわからないんだ!余計にいけないじゃないか!もし悪い男に引っかかったら紺子ちゃんなんて簡単に連れ込まれてしまう!)いきなり大声を出した僕に紺子ちゃんは目を白黒させて驚いていた。僕はベンチの背に凭れていた体を起こして大真面目な顔で紺子ちゃんに向き合った。
「お願いだから、僕以外の誰ともあんなところ行かないで!」
「え、え?」
「絶対!約束して!」
「う、うん…?」
僕の気迫に押されるように頷く紺子ちゃんは、その意味すらわかってない。僕はそんな紺子ちゃんが不安でたまらず、今ここで洗いざらい話してしまおうかと考えたそのとき。
「えっと、じゃあ、吹雪くんとなら行ってもいいべ?」
「……………」
「吹雪くん?」
今更蝉の鳴き声がうるさいと思った。気分的にはこのままブラックアウトしてしまいたい。くらくらする頭で、僕はぼそぼそと口を動かすのでやっとだ。
「………こ、紺子ちゃんが、いいなら」
結局、僕も、悪い男のうちの一人かもしれない。