本当のことをいうと紺子は怯えていたのだ。触れ合う唇の柔らかさやぬるりと絡みつく舌の感触にわけもわからず怯えていた。とりわけ最初は気持ち悪さばかり勝って、嫌だ、したくないと、顔を寄せてくるのを避けると、決まって吹雪は悲しそうな顔をする。情けなくて可哀相な。それを見ると紺子は自分が一方的に吹雪をいじめているような気持ちになって居た堪れず、最終的に唇を受け入れてしまうのだ。(吹雪くんはずるい!)
ぬるぬるした舌がすぐに入り込んで頬の内側を舐め上げると、ぞくぞくと背筋が粟立つ感覚に紺子は震えた。悲しくないのに涙が出るなんて知らなかった。この正体のわからない激情のようなものはどこから来るのだろう。触れ合うたびに敏感になるようで戸惑ってしまう。
吹雪がようやく唇を離したころには紺子は何も考えられなくなっていた。お互いの唾液が細く糸を張ってぷつんと切れたのを紺子は荒く息をつきながらぼんやりと見やった。吹雪の目を見ることがどうしてもできなかった。頬に手が宛がわれる。すらりと伸びた骨っぽい指が涙の跡をくすぐった。いつもひんやりしている指先が今はなぜか熱く感じた。
「キスが嫌い?」
答えられなくて俯くとぎゅっと抱き寄せられる。ベッドのスプリングがぎしぎし嫌な音を立てて紺子の心を悪戯に掻き回した。急に強い不安を覚えて吹雪の背中にしがみ付いた。首筋に顔を埋めてごねるように頭を振るう。
「嫌いじゃ、ない、けど」
「けど?」
「ぞわぞわ、する。よくわからないけど」
「もう一回してみればわかるかもしれないよ」
吹雪の言い方が妙に優しかったので紺子はちょっと不思議に思った。いつも優しいけど何かずれてる。
「それ、吹雪くんがしたいだけだべ?」
「うん。したい」
直球な物言いをするのが珍しくて思わず顔を上げた。目が合う。熱っぽくぎらぎら光るそれに息が詰まった。獰猛な肉食獣の目だ。食べられてしまうのかしらと、紺子の脳裏に咽元を噛み切られる想像がちらつくほど凶悪な目だった。思わず「怒ってる?」と聞いてしまった。やっぱり最初に逃げたのが悪かったんだろうか。合った目を外せないまま震えると吹雪は間の抜けた顔をして「えっなんで?」と逆に聞き返した。
「怖い顔してたから…」
「…あ、ああ。僕そんな顔してたかな」
「してたべ!」
怒ってないとわかって安心すると、紺子は頬を膨らませてぺしぺしと吹雪の胸元を叩いた。吹雪は「痛い痛い」とちっとも痛くなさそうに笑って紺子の手を取った。
「ごめんね。すごく緊張してたんだ」
「どうして?」
「…どうしたらもう一回キスしてくれるかなって、さ」
「……そんなに、したいべ?」
「うーん」と吹雪は首を傾げて紺子を覗き込んだ。不安そうにゆらゆら揺れる瞳は吹雪の咽喉らへんを睨んでいる。
「…今日はもうやめようか」
あからさまにほっとした紺子の頬へ指を滑らせて、そっと小さな耳元に唇を寄せる。吐息を吹き込むように。

「食べ頃になるまで待っててあげるよ」