意味もなく人通りを走ってみたい、などと吹雪は学校の机に頬杖をついて考えていた。本当に何の意味もなく、人の群れの中で唐突に走り出したり叫んでみたり、そんな自由が欲しい。(ああ、全く、気狂いじみている。自分でもわからない衝動だ、僕は自分のことなんか昔から一度でも本当の意味で理解できたことなんかないけれど。それにしても今日は空が青いったらないな。なんて天気だろう!僕は青空が忌々しいようだよ、特に今日に限ってこんなに晴れることないだろう?しかし、いや、本気で僕はどうかしてしまったのかもしれない。できることなら今すぐ走り出したいんだ。意味がなくはないんだけど…こんなときアツヤならどうしただろう。駄目だ、アツヤはまるで関係ない。離別か融合か僕の知ったことじゃないが区別はしなきゃいけないだろう、いないんだから。僕にはいないという事実だけが重要なんだ。正体なんて大した問題じゃない。でもアツヤならきっと迷わず走るだろうな。すると僕は…、ああ、違う、僕が戦うべきものは常識という壁だ。僕自信は問題ないけどきっと怒るだろう。世間の常識を踏まえて言えばね…)
ふと気づくと国語の授業はパラパラと進んで、吹雪の意識が窓の外に囚われている内に三ページ先へ話が飛んでいた。教師の眠たい朗読をぼんやり聞き流しながら吹雪は適当に教科書を捲る。もう一度視線を窓辺へやりながら、雪が降ればいいのにと思った。もう間もなく夏になるという五月某日のことである。
結局、午後から降ったのは当たり前に雪ではなく雨だった。吹雪はホームルームが終わるまでぼんやりと椅子に座ったまま動かなかった。今日は一日こんな調子で誰に話しかけられても上の空だ。実を言うと吹雪は突然走り出したり叫んだりするよりも、もっと差し迫った問題に直面していて、それをどうするかずっと考えていたのだ。しかし下校のチャイムが鳴ると同時に席を立って、それこそ風のように学校を出て行ってしまった。


紺子は布団の中でとろとろとまどろんでいた。最初は軽い風邪だったのに、うっかり熱を出して寝込んでいる。でも今はすっかり熱も下がっているし、きっと明日には学校へ行けるだろう。紺子はちらりと窓の外を見た。午前は素晴らしく気持ちの良さそうな快晴で、こんな状態でなければ間違いなく外へ飛び出したのにと歯がゆい思いをしたが、午後になってから雨が降り出すと少しほっとした。鉛色に鈍く光る空からさらさらと霧雨が降る。紺子は雨音に耳を傾けてそっと目を閉じた。熱の残滓が漂うように全身に纏わりつくのを感じてうんざりする。早く治ってみんなと遊びたい。今日は雨が降ったから、サッカー部はどこで練習しているんだろう。きっとどこであれ吹雪は今日も活躍してるに違いない。吹雪の姿を思い浮かべて溜息をついた。考えないようにするのは難しいようだ。紺子ははっきりしない思考であれこれ思いながら気づくと眠っていた。
次に意識が浮上したとき、やけに雨の匂いが濃いようで、耳を澄ますと雨音が激しくなっているのに気がついた。気分は悪くなかったがじわじわと染みるような頭痛がして、きゅっと眉間に皺を寄せた瞬間、不意に額にひんやりしたものが当てられて驚いた。ぱっと目を開くとすぐ傍によく知った顔があって更に驚いた。
「…ふ、吹雪くん!」
思わず紺子が起き上がろうとするのを、吹雪は慌てて肩を押して留めた。「駄目だよ、安静にしてなくちゃ」紺子の点になった目に笑いかけて、ずれ落ちた毛布を丁寧に引き上げて掛けてやる。
「…手、冷たすぎたかな」紺子の額に当てた手をひらひら振りながら「驚かせてごめん」と言うと、今度はじっと紺子を見つめたまま何か思い悩むように押し黙った。
「どうして、ここに…」
まだ信じられないといった様子で目を丸くした紺子が尋ねかけ、ふと吹雪の着ている学生服の肩がしっとりと濡れていることに気づいて今度こそ起き上がった。
「タオル持ってくるべ!」
「いいって、紺子ちゃん、もうお家の人に借りたよ」
「でも肩がこんな…吹雪くんまで風邪引いちゃうべ」
一日寝ていたくせに勢い良く起き上がったせいでひどい立ち眩みがして、ぐっと目を瞑ってふらつく紺子を吹雪はさっと腕を伸ばして支える。その腕がまたひんやりしていて紺子が震えると吹雪は苦い顔で「ごめんね」と独り言のように呟いて慎重に寝かしつけた。
「もう起き上がっちゃ駄目だよ。僕のせいできみの具合がますます悪くなるなんて僕は耐えられない」
「でも…、どうしてそんなに濡れてるの?傘持ってなかった?」
紺子が心配そうに眉根を寄せて尋ねると、吹雪は言い辛そうに視線を手元に落とした。「…今朝、天気予報で雨降るのは知ってたから、一応持ってきてたんだけどね…」言葉を切って紺子に視線を移す。じっとこちらを見ているのに気づくと気恥ずかしそうに口元を歪めて続けた。「…早く、会いたくて。僕は急ぐあまり傘を忘れて走り出してたんだ。気づいたのはきみの家のチャイムを押してからだよ」
「………」紺子は嬉しいような呆れたような複雑な思いで目を閉じた。でもやっぱり本当はちょっと嬉しいんだろう、悔しいけど。「……吹雪くん、私が休んだのたった一日だべ」
声に呆れが混ざったのを聞き取って吹雪は大真面目な顔をして紺子を覗き込む。
「わからないよ、明日も休むかもしれないじゃないか。紺子ちゃん最近ずっと具合悪そうだったし…。今は…ちょっとは良いみたいだけど。本当は授業中もずっと、きみに会いたくて…何度も学校を早退しかけたんだ」
「そんなことしたら怒るべ」
「うん。そう言うと思って我慢したんだ」
だから許容範囲でしょ、吹雪がそう言いたそうに笑うので、紺子は口角をくっと下げて不満そうな顔を作らなければならなかった。ここで喜んだら間違いなく、吹雪は似た場面で同じようなことをやらかすに決まっている。会いに来てくれたのはすごく嬉しいがこんなふうに自身をないがしろにされては素直に喜べない。
「…今日、途中まで良い天気だったのに。こんなことになるならずっと晴れてればよかったべ…」
「僕はずっと雪が降ればいいのにって願ってたよ」きょとんと不思議そうな双眸に吹雪は可笑しそうに笑いかけた。「今の内に降っておけば、紺子ちゃんがすっかり良くなる頃には積もってるはずだからね。きみは降ってる最中よりも降り積もって真っ白くなってるのを見る方が好きでしょう。残念ながら僕の願いは季節が許してくれなかったけど」
「吹雪くん、さっきからめちゃくちゃだべ」
「自分でも散文的だと思うよ」
紺子は長い溜息をついた。自覚はあったのかと。具合が悪くなったのかと枕元でそわそわし始めた吹雪に、気を取り直して笑いかけた。
「…今日、来てくれてありがとう。でも風邪うつったら大変だから…」
「紺子ちゃんとお揃いなら本望だよ」
「馬鹿なこと言ってないで」
吹雪の前で怒った顔をするのは難しかった。きっとしくじったのだろう。吹雪が嫌な感じに笑ったので、紺子は精一杯睨みつけた。
「ごめん、紺子ちゃんがあんまり可愛いから」紺子に睨まれながら吹雪はくすくすと笑って手を伸ばし、ふと気づいて拳を握った。
「…僕の手は、すごく冷たいんだろうね」
「吹雪くん…」
「僕はきみの体温を奪ってばかりなんだろうか」
「それは吹雪くんが自分を省みないからだべ」
「きみのことを考えていると自分を省みている暇がないんだ」
密やかに非難を込めて見上げてくる紺子を吹雪は物憂げにじっと見下ろして、長いこと逡巡してから腹を決めたように軽い溜息をついた。
「どうやら僕は自分を大切にしないときみに触れることすら出来ないらしい」
実を言うとね、と吹雪はすっかり落ち込んだ様子で続けた。
「紺子ちゃんが風邪をひいたのも、僕の冷たすぎる手を握ってばかりいたせいだと思うんだよ」紺子が何か言う前にそっと唇に指を置いた。ひんやりした指先が紺子の柔らかく温かい唇に触れると、吹雪の瞳の奥がちろりと光った気がけれど、瞬きをする間に消えて紺子は何か読み取ろうと目を見開いた。「二度ときみに触れられないと思うと気が狂いそうだ。でも僕の都合できみばかりこんな思いをするのも僕には耐えられない。…つまり、僕は僕ごときみを大切にする道を選ぶしかないんだよ。紺子ちゃんがそれを選ばせたんだ。だから…ああ、回りくどいかな」吹雪はそっと憂鬱を振り払って微笑んだ。「…きみが元気にならなくちゃ僕も元気にならないんだよ」
「めちゃくちゃだべ!」
指が離れた瞬間紺子が呻くように言うと吹雪は声を立てて笑った。帰りには何が何でも傘を押し付けて帰らせようと、紺子は吹雪の笑い声を聞きながら固く誓って目を閉じた。早く帰って、の一言が中々出てこない自分の口を持て余して。