大人になった吹雪と紺子の話(ちょっとだけ『ラビット病』パロ)
 
大きくて立派そうなマンションが良かった。セキュリティがしっかりしていて、日当たりが良くて、駅に近いところ。そうだったら僕は安心して外へ出れたのに、紺子ちゃんが選んだのは二階建てのおんぼろアパートだった。駅まで歩いて二十分近くも掛かる上、肝心の1DKの部屋は二人で住むには少し狭い気がした。しかもドアの鍵は針金一本あれば何とかなりそうなほど簡単な作りで僕を戦慄させる。ここに彼女を残して外へ出れるだろうか。下見に来たとき僕はそればっかり考えていた。ドアノブをがちゃがちゃ回しながら憂鬱になる僕なんかどこ吹く風で、紺子ちゃんはじっとバルコニーの方を見つめていた。下見に立ち会ってくれた大家さんはずんぐりと太った気難しそうな男で、毛むくじゃらの腕に巻き付けた腕時計を何度もちらちら見ながら妙に取り繕った調子で部屋の説明なんかをしていたけど、僕も紺子ちゃんも聞いちゃいなかった。僕はドアノブを回すのをやめて部屋に上がった。「畳も綺麗でしょう。ただここの汚れは前に住んでいた人が…」大家さんは気にもならない壁の染みについて神経質そうに言及していた。僕は小声で紺子ちゃんの背中に話しかけた。
「どう?やっぱり駅に近い方が良かったんじゃないかな」
紺子ちゃんはさっきから何も言わない。不動産屋で写真を見ていたときは「これがいい」と言い張っていたのに、やっぱり現物を見て嫌になったのかもしれない。むしろそうだったら僕には都合が良い。だというのに、紺子ちゃんは元気良く僕を振り返ってこう言ったのだ(とびきり良い笑顔で)。
「ここがいい!」


紺子ちゃんがここが良いと言えばどこであろうとそこが住処になるのだ。ただ一つ、僕の絶対の主張で取り付けられた厳重な鍵について紺子ちゃんは何も言わなかった。内心呆れ果てているだろうことは何となく知っている。彼女の鍵を見る目はいつだって憂鬱そうだ。その鍵を彼女が使うことは滅多にないけれど。
(紺子ちゃんに言ったことはないけれど、本当なら僕はもっとしっかりがっちり蓋をして彼女を閉じ込めたいんだ)


真夜中に近い時間に僕はやっと帰ってきた。もう紺子ちゃんは寝ただろうな。仕事でくたくたになった体をなんとか動かして重たい鍵を開けると、部屋の奥から妙な鳴き声が聞こえてきた。
「みみみみみ…」
「…紺子ちゃん?」
か細い鳴き声は今にも擦り切れそうに弱弱しい。僕は持っていた鞄を放り投げて一目散に奥の寝室に駆け入った。
「紺子ちゃん!」
寝室には布団が二組きちんと敷かれていて、その内の一方にはこんもりと山が出来ていた。そこから「みみみみみ」と怪しい鳴き声が漏れている。紺子ちゃん、ともう一度呼んでその山に手をかけると鳴き声はぴたりと止んだ。掛け布団を捲るとぐっと目を瞑った紺子ちゃんがまた「みみみ」と鳴いた。
「どうしたの紺子ちゃん。お腹痛い?風邪引いた?熱は?体温計どこだっけ」
立ち上がろうとすると紺子ちゃんは僕の服の裾を掴んで首を振った。どうやら違うらしい。
「ねえ、どうしたの」
「みみみ」
「もしかして寂しかった?」
「みみみ、み」
僕はそっと紺子ちゃんの頬を撫でた。薄い瞼がゆっくりと開いて黒い二つの目玉がきょとり揺れた。僕は寂しかったよ、紺子ちゃん。仕事中もずっと紺子ちゃんに会いたかったよ。遅くなってごめんね。明日は休みだからずっと一緒にいようね。
とうとう僕の口から「みみみ」と零れたのを、紺子ちゃんはしょんぼりと目尻の下がった情けない顔で見ていた。僕も同じ顔をしているに違いない。上着も脱がないまま紺子ちゃんを抱き締めて、僕はちょっと嬉しかった。二人きりで暮らし始めて紺子ちゃんは寂しがりになったみたい、それを癒せるのは僕だけだ。そう思うとますます腕の中の存在が愛しかった。


次の日、僕たちは一日中ぴったりくっついて過ごした。歯を磨くときもご飯を食べるときもお風呂も一緒(トイレだけは許してくれなかった)。
結局、1DKの狭い部屋は僕たちに丁度良いようだ。