end(old)
庭をそよぐ夏草に朝露が煌めいている。秋の清々しさと春の芳しさがおり混ざったような風が吹いて身が引き締まる。
すい、と腕を引き踵を踏み鳴らした。深く息を吸うと清涼な空気が肺を満たす。何時もなら師匠と二人で行っている鍛練だが、今朝は師匠が二日酔いで寝込んでいる。(昨夜飲み過ぎたらしい)ひとりで迎える朝はいつもより静かで、流れるように型を打つ体にまかせて僕は深い意識の底でひたすら昨日のことばかりを考えていた。

「(言っちゃっ、た)」

あの後、ナマエさんは何も言わなかった。ただ背中を撫で続けて、一緒に翔太兄に謝りに行って、それだけ。特に様子が変わったわけでもない。いたっていつも通りだった。何かあったとすれば……。

「(あの時、)」

指先が震えた、あの一瞬。

「おはよう」

突然かかった声にはっとして拳を打つ体が止まる。驚いて振り返ればそこには丁度部屋から起きてきたらしいナマエさんがいた。深い涅色の瞳はまだ眠たげに緩く瞬いている。途端に心臓が跳ねた。昨日のことを思い出したのだ。
ナマエさんはなんでもない動きで縁側に腰を下ろした。浮かべる笑みは、いつもとなんら変わりない。僕は複雑な思いでナマエさんをじっと見つめた。態度が変わってしまうのは恐ろしくも在るがもしかしたら、という淡い期待が僕を落胆させる。

「いつもこんな時間に起きてるんだ。俺には真似できない規則正しさだな」

溶けるような笑みだ。胸が切なさで痛くなるような。

「うん……」

呟くように返せばナマエさんは僕に感情の読み取れない複雑な笑みをよこして眩しそうに空を見上げた。
その様子は以前、ここでたわいもない話をしていた時の記憶と重なる。思えばあの時から……いや、もう初めて出会った時からこの想いは始まっていたのかもしれない。

蝉の声が煩い。夏の朝はもうその清涼さを失い、光り輝く太陽はいよいよその苛烈なまでに鮮やかな陽光を地上へと注ごうとしていた。淡い曖昧さが消え、変わりに明瞭な影が生まれる。長い、沈黙だった。
さらりと髪を弄ぶ風も、瑞々しいくらい鮮やかな空の青も、全てが息を呑んで僕らを見つめていた。無意識のうちに握り締めた手のひらの内を汗が伝う。

「佳主馬くん」

ナマエさんは空を見つめたまま僕の名を呼んだ。瞳が伏せられているというわけではないのに、何故かそんな印象を持った。声は透き通って、はっきりとしている。それは全くの不意打ちだった。

「憧れと恋心は違うよ」

その所作と同じに、なんでもないことのように彼は言った。僕に。
だけどその言葉はあまりに悲しかった。悲しくて、息がつまった。

「そんなことっ……!!」
「ないって言い切れるの?君はまだ中学生だ」

今度は、僕の方を見て言った。過ちを犯した子供を諭すように。

「今まであまりいなかったタイプの人間が現れて興味を持った。そして抱いた憧れを恋心と勘違いしてしまった。それだけのことさ」

淡々と語られる言葉が、僕の胸を突き刺す。悲しくて、くやしいけど涙が零れた。
違う。そうじゃないんだ。
何か反論しなくては、と口を開くが上手く言葉が出てこない。ただ否定されたことがショックだった。なんで。どうして。

「……ってた、の?」

やっとの思いで出した声は、酷く震えていた。ナマエさんは先を促すように真っ直ぐにこちらを見つめている。静かな瞳が悲しかった。

「、ずっと……!知ってたの……!?」

僕があなたを見ていたこと、僕があなたに惹かれていたこと、僕があなたを好きなこと。

「ずっと……知ってて!からかって、……!!」

一度口から零れれば堰を切ったように一気に言葉が、感情が溢れ出た。思考がぐちゃぐちゃで、痛くて、こんなにも苦しい。大好きなあなたのことなのに。

「……もし、そうだとしたら?」
「……っ!!」

心が、悲鳴を上げた。

「……っ大嫌いだ!!」

慟哭するように叫んで庭を飛び出した。涙がくるおしいくらいこみ上げてくる。ただ悲しかった。耐えられなかった。だから逃げ出した。
ぐちゃぐちゃの頭に昨夜の出来事が掠めるように浮かんだ。つい昨日も、同じように逃げ出したのだ。しかし想いは同様ではない。追いかけてきてくれた足音が、今はもう聞こえないのだから。

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