健二くんと彼のお兄さんのナマエさんが来てから4日目。私はおばさんたちと一緒に昼食の用意をしていた。
「夏希姉ぇ」
普段台所では聞かない声に振り返ると、どこか落ち着きの無い表情をした佳主馬くんがこちらを覗き込んでいた。
「ナマエさん知らない?」
その質問におや、と少し驚く。佳主馬くんが誰かを探しているなんて珍しい。
「ナマエさんなら北側の部屋よ。今、お仕事してるみたいだから」
ちょっと仕事でパソコンを使いたいから風通しのいい部屋を貸して欲しい、とナマエさんが言ってきたのは数時間前のことだ。前のパソコンを熱暴走で1台駄目にしてしまったらしい。
「仕事?」
とたんに佳主馬くんが寂しそうな顔をする。仕事中ならむやみに邪魔はできないと思っているのだろう。この少し年下のはとこは年齢の割にはひどく大人びている。
「佳主馬くん、ちょっと待ってて」
戸棚からコップを取り出して氷を入れる。冷蔵庫から良く冷えた麦茶を取り出して注ぐとピシリと氷にひびの入る音がした。
「はい、これを持っていって!」
お盆に麦茶をのせて佳主馬くんに渡すときょとんとした視線が返ってくる。その表情に私はにっこりと笑いかけた。
「ナマエさん、ずっと篭りっぱなしだから麦茶持っていって!休憩も大切ですよって!」
佳主馬くんは少し瞠目して、それから分かった、とひと言だけ呟くと台所を出て行った。その足取りはひどく軽い。
「あれ?夏希ちゃん、今佳主馬くんいなかった?」
両手にたくさん野菜を持った由美おばさんが廊下からひょこ、と顔を出した。
「ナマエさんのとこ」
「またぁ?佳主馬くんが懐くなんて珍しいわねぇ」
どさ、という音と共に色とりどりの野菜が机の上に広がる。どれも瑞々しくて美味しそうだ。
「そうかな……あれは懐くっていうより……」
彼のことを話すときのキラキラと輝く瞳、さっきの寂しそうな表情。小学生の時の私のあんな風だったのだろうか。
「うまくいけばいいなぁ」
目の前を転がる真っ赤なトマトを手に取る。よく熟れたそれはほのかに甘い香りがした。
「ナマエさん?」
夏希姉ぇから持たされた麦茶を持って静かな部屋を覗く。南側よりもほんの少し薄暗い室内でナマエさんはひとりパソコンと向かい合っていた。その真剣な様子にはっとする。いつも優しげな色をたたえた瞳は今は鋭く画面の中の文字と数字の羅列を見つめている。
邪魔にならないように静かに後ろから近づく。そっとパソコンを覗くと数字だらけの画面から一変して見慣れたグラフィックが広がった。
「これ……OZ?」
ぽつりと呟くとびくっと肩を跳ねさせてナマエさんがこちらを振り向く。はじめてナマエさんの瞳が僕を映した。
「吃驚した。佳主馬くんか」
ナマエさんがへにゃりと笑う。長い睫毛がぱしぱしと空を切った。
「ナマエさん、OZの仕事してるの?」
「ん、まぁね。OZっていっても開発部だけど」
OZへ入社するなんて相当優秀でないとできない。ナマエさんはすごい人なんだ。
「麦茶持って来てくれたんだね。ありがとう」
ナマエさんがコップを手に取る。溶けた氷がカラン、と涼しげな音を立てた。喉が渇いていたのか麦茶はすごい勢いでなくなっていく。ごくり、と喉が鳴って白く波打つ首筋から目が離せなくなる。脳のどこかがちりちりと焼け付くようだった。
ピリリリリリリ!
突然鳴り出したけたたましい音に驚いて意識が覚醒する。はっとして音源へ目を向けるとナマエさんの携帯の着信アイコンがちかちかと点滅していた。
「あ、佐藤だ。ちょっとごめんね」
ナマエさんが携帯を手にとって通話ボタンを押す。反射的に止めようと右手を伸ばしたが間に合わない。
「もしもし佐藤?あーうん、俺だよ。そっちの進み具合は?……はあ?お願い☆じゃねーよ!今だって本当は休みなんだからな俺!」
伸ばした行き場の無い手がゆっくりと地に落ちる。電話口の声音は面倒くさそうだが、くだけた雰囲気が相手とナマエさんとの親しさを物語っている。なんだか酷く空虚だった。
陣内家にいる間、(健二さんを除いて)ナマエさんの一番近くにいたのは僕だった。けれど外にはもっとナマエさんと仲のいい人物がいるのだ。
「……あ、じゃあ僕、仕事の邪魔になるから、行くね、」
お盆を手にとってすばやく部屋から出て行く。途中でナマエさんの声が聞こえた気がしたが聞こえない振りをした。
長い廊下の角を曲がってようやく息をつく。こんなこと、我が侭だって分かってるんだ。ナマエさんは大人で、僕は子供で、どうしたって埋められない差が、過去がある。僕の知らない友人だってたくさんいるだろう。
どうして以前OZで戦ったという時に話しかけたりしなかったのだろう。星の数ほどいる挑戦者の中でナマエさんだけ、なんてそんなこと無理だって分かっている。けれどどうしても目に涙がにじんだ。ナマエさんの日常に僕がいないことがただ、悲しい。佐藤という人よりもナマエさんに近くなりたい。
でもこの1週間が終わったら。終わってしまったら――。
僕はこんなにもあなたのことを知らない。こんなにも、あなたの日常から遠い。そのことが、ただ寂しくて、悲しくて仕方がなかった。