end(old)
ナマエは微笑ってくれるだろうか。
太陽の穏やかな光が俺様の足元に薄闇の影を落とす。よく晴れた…ナマエの好きそうな天気だ。吹き抜ける爽やかな風に思わず微笑む。こんな穏やかな気持ちで空を見上げるなんて何時ぶりだろう。おそらくナマエが現れなければもう一生こんな気持ちにはなれなかったに違いない。脳裏に今頃暇をもてあましているであろうナマエを思い浮かべてくすりと笑う。
だが同時に一種の寂しさも胸のうちから這い出てくる。心をゆらゆらとたゆたうそれは確かに俺様の、ナマエを失ってしまうことに対する不安だ。しかしそれを感じるからこそ今のままではいられなかった。その”いつか”は何時来るのか分からない。基本ナマエは俺様の許可がなければ牢から出ることは出来ないが戦があれば話は別だ。今でこそ安定してはいるが、いつまた戦が始まるとも限らない。それに今の状態を維持すること自体も俺様にとって限界だった。

何時だって会いたい。会えたなら触れたい。もう格子越しのぬくもりでは足りないのだ。もっと傍にいたい。抱きしめあえるほど近くに。

ゆっくりと牢へと続く階段を下りる。ただナマエに会いに行くだけだというのに、それだけで緊張して足が震えた。

「(ああ、俺様はこんなにも、)」

ナマエのことが好きだ。
ナマエの牢の前で立ち止まり努めていつも通りの声で呼びかけた。

「ナマエ」

しんとした牢の中に俺様の声だけが響く。毎日通っている牢だというのにまるで見慣れない何処か別の場所にいるような気がする。

「佐助」

そう声が大きいわけでもないのに、よく通る凛とした声が返ってくる。珍しく今日は起きていたらしい。墨色の瞳が俺様を映して柔らかく細められた。
立ち上がろうとするナマエを手で制して真っ直ぐに見つめる。不思議そうな顔をするナマエに祈るような思いで口を開いた。

「此処から、出られるよ」

俺様の言った言葉にナマエが大きく目を見開く。一度話すのを止めたらぐちゃぐちゃになった想いが溢れてしまいそうで捲し立てるように続きを話した。

「今までの行動、言動、態度から判断してナマエが武田の敵だという可能性はほぼ零に近いって分かったから。今までの素性は不明だけど今の時代、全てを把握してるわけじゃないしね」

本当は、もっと前から分かっていたのだ。ナマエは人を傷つけるようなことなんてしないだろうし以前格子越しに抱きしめた体はおよそ武道に通じているものの体つきではない。

「もう、自由だよ」

俺様が笑えばナマエは複雑そうに顔を顰めた。自惚れてもいいというのなら今、彼の顔を曇らせているのが俺様であればいい。

ナマエは何も話さない。静寂に包まれた牢の中で自身の鼓動だけが妙に耳についた。でも、もう決めたのだ。ごくりと息をのんでからゆっくりと口を開いた。

「で、ここからが本題……なんだけど」

その言葉に何かを考え込んでいたナマエが顔を上げる。綺麗な墨色が揺れている。

「……最初に会ったころナマエ、行くところないって言ってたでしょ?」
「……ああ、」
「だから行くところないんなら、武田軍に……入る気はない?」

俺様の言葉にナマエが眼を丸くする。
俺様の決めたこととはナマエを武田軍に勧誘することだったのだ。旦那は大丈夫だろうし大将もナマエの人柄を見れば快諾してくれるだろう。ナマエが武田軍にいれば傍に居ることもできるし守ることも出来る。
ナマエは戸惑うように視線を泳がせていたがすぐに真剣なまなざしで俺様を見つめた。

「佐助の提案は、嬉しいが……俺は取り柄もないし……そこまで迷惑は掛けられない……」
「そんなことない!!」

声を荒げる俺様にナマエが驚いたように目を見開く。

「俺様、ナマエのことが……ッ、好きなんだ!!迷惑だなんて思わない! ナマエの傍に……ナマエと一緒に居たいんだ!頼むから、ねぇ……」

ナマエが俺様のこと好きじゃなくても構わないから。

「ずっと……傍にいてよ……」

好きなんだ……どうしようもないくらい。
牢の中を、沈黙が支配した。俺様はナマエのことをまともに見ていられなくて俯く。まるで時が止まってしまったんじゃないかと思うほど静かで足元に影を落とす淡い暗やみに永遠を錯覚する。呼吸をするのも忘れるほどの一瞬が続いた。

「佐助」

名を呼ばれると同時に頬を両手で包まれる。驚いて顔を上げれば真っ直ぐにナマエがこちらを見つめていた。澄んだ墨色が俺様だけを映している。

「ありがとう」

飾らない、瞳と同じくらい真っ直ぐな言葉がじわりと俺様の胸に染みる。泣きそうになる俺様にナマエが綺麗に微笑った。ほんとうに、本当に綺麗な笑みだった。

「俺も、佐助が好き」
「――――、っ!!」

息が、できない。
嬉しくて、死んでしまうんじゃないかと思うくらい嬉しくて思わず格子があることも忘れてナマエに抱きつく。ああ、ああ、夢みたいだ!
抱き潰してしまうくらい腕に力を込めるとナマエも強く俺様を抱き返してきた。格子も隙間もなくなって、このままくっついてしまえばいいとお互いに抱きしめあう。幸せに形があるんだとしたらきっとそれはナマエの形をしているんだろう。

「佐助、ずっと……傍に、いたいんだ」

ナマエが耳元で囁く。俺様は夢心地でそれに「俺様も」と必死になって頷いた。
もう一生、死ぬまで傍にいたい。

「……あ、今、牢開ける、ね」

そう言って体を離せばナマエも穏やかに微笑んだ。ぬくもりが離れてしまうのは名残惜しいが、それでも牢越しじゃなく直に触れたい。いそいそと懐から鍵を取り出し鍵穴に差し込む。鍵を回す手が震える。思えば格子なしでナマエに触れたのは出会ったとき以来だ。(しかもその時ナマエの意識はなかった)
かしゃん、という音を立てて錠前が外れる。その音でさえ神聖なものの様に聞こえて唇が震えた。俺様とナマエを隔てていた、戸が開く。

「佐助」

ナマエが微笑う。俺様とナマエの距離は十数歩程度しかなかったが、それでもその距離がもどかしくて俺様は駆け出した。
もう俺様たちを遮るものは何もない。ナマエが手を差し出す。俺様も早く触れたくて手を伸ばした。

好きだ。好き。ナマエ、好きなんだ。あと少しで君に手が届く。

「佐助、俺は、―――、」


伸ばした手は空を掴んだ。

「、…え……」

対象を失った体はふらりと傾いでその場に崩れ落ちる。
居たのだ。確かに、彼は

「ここ……に、」

居たのに。
そっと彼のいた場所に触れる。ひんやりとした何のぬくもりも感じられない冷たさが指先を突き刺す。触れた床はまっさらで彼がここにいたと示してくれるものは何もなかった。体が放心して動かない。何の音も聞こえなかった。その時、世界は確かに死んでいた。

「……ナマエ…」

消えて、しまった。

「(ああ、でも俺様は心のどこかで彼が蜃気楼のように不安定な存在であると知っていた)」

「、……ナマエ」

胸を絶望的なまでの喪失感が支配する。一体どうすればナマエと俺様は一緒にいることが出来たのだろう。ああ―――、
彼は最期に夢の中で何と言っただろうか。




(こうして俺様は彼を失ったのです)

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