短編
!主人公=夢主
!キャラクエ後



戻りたいと、強く思ってしまう。あの日々に。
ひとりと一匹。ただ、そのふたりだけがいた。忌まわしくも懐かしい、あの古巣に。
いや、戻りたいのは古巣ではなく。ただあのひと時の…夢のような日々に。

窓のない暗いレンガ造りの壁。地下奥深くの、空気が沈んだような独特な香り。ナマエは、ここ最近ですっかり見慣れてしまったマガンの部屋にいた。慣れてしまったというのも、最近妙に模擬戦に誘ってきては自分の部屋に寄るように促す、この巨躯の人虎が原因である。
目の前の簡素なベッドの上でのっそりと、何かを待つように沈黙するマガンを見つめる。最初の頃は何も考えずに素直に遊びにきてはいたものの、ここまでくると模擬戦が目的ではないのは明らかだ。いままであえて問うことはしなかったナマエは、しかし目の前のマガンに向けてその疑問を問うために口を開いた。

「で、最近はどうしたのさマガン。妙にここに来るように促すけど」

たてがみの色より薄い、鶯色の耳がピクリと動いて外側を向く。マガンは、バツが悪そうに鼻を鳴らして押し黙った。

理由を言いたくないのは自分の未練たらしさが情けなく、気まずいからだ。ナマエと過ごしたシャングリラでの数十日間。この地下施設と同じく、地下に理想都市アガルタをもつ異世界が重なり合ったことでふたりは時間軸を異なくする遠い故郷へ混ざり合った。そこでの日々は、過去の記憶と印象が覆るほどの――平たく言えば幸せな日々だった。あんなにも忌まわしかったあの場所から、二度と帰れなくなってもいいかもしれないなんて。ご主人サマとふたり。こんな暮らしなら悪くないと、言いのけてしまう程度には。

「マガン?」

契約者の先を促す声に、マガンは観念して息を吐く。

「もう一度、シャングリラに行けねェもんかと思ったんだよ」

目の前のナマエは眼を丸くしてマガンを見つめた。居心地が悪くなって視線を外して身じろぎをすると、いきなり距離を詰めてきたナマエが隣に腰を下ろした。決して良いとは言えないベッドのスプリングがギシリと軽い悲鳴を上げる。

「なんで?ここが嫌になって、帰りたくなった?」
「そういうわけじゃねェけどよ」
「じゃあどうして?」

矢継ぎ早に返されるナマエの言葉に、マガンは徐々に逃げ場をなくして追いつめられる。こんなにも歯切れが悪くなるのは、あの時の出来事を夢にすることを望んだのは他でもない自分だったからだ。
日常に戻ってみて初めて思い知らされたのだ。自分がどれだけあそこでの日々を気に入っていたのかを。朝起きると隣にナマエがいて。共に寝床から起き上がり、狩りをし、水浴びに興じて同じものを食べて、寄り添い合って眠る。蒸し暑くて獣だらけで底なし沼や毒虫のはびこる、そんな過酷な世界であっても、話し相手がいれば世界は一変した。けれどそれは、その話し相手が他ならぬナマエだからだったのだと、この東京に戻ってきて分かってしまった。闘技場での殺し合いも、快適なシャワーも、狩りをしなくても勝手に出て来る食事も、ナマエがいなくてはどこか味気ない。忘れられないシャングリラでの日々。あれこそマガンにとっての幸せで、まごうことなき”夢”だった。最高の夢を見たら、続きが見たくなってしまうのは当然だろう?

しかし自分で夢にしてしまった手前、あけっぴろげにそれを望むことはどうしてもできなかった。ご主人サマにかっこわるいところを見せるのは、出来れば避けたい。

淡い墨色の目が真っ直ぐにマガンを覗き込む。ナマエは人から目を逸らさない。ご主人サマのどこか底の知れない洞のような瞳に、隠していた気持ちが揺らぐ。とどめとばかりに「マガン」と名前を呼ばれ、どうにでもなれという気になってマガンは全てを吐露した。

「シャングリラでの生活を、気に入りすぎたんだよ。アンタと俺の、ふたりっきりのな。もう一回ぐらい重ならねぇかと思ったが、そう簡単に行くもんじゃねェな。ま、しょせん夢は夢のままってこったな」

極あっさりとした口調になるように努めて吐き出された言葉に、ナマエは押し黙る。何かを考え込むような表情をしたあとで、不意に膝立ちになるとそのままマガンを押し倒すようにベッドの上に乗り上げた。突然のナマエの行動に困惑したマガンはされるがままに古びたスプリングに体を沈める。シャングリラでこそ何度も抱き込んで眠っていたため距離の近さには慣れていたが、予想外の動きにマガンは戸惑う。

「なら、きっとこれも夢だ」

こちらを見下ろした、ナマエの言葉がマガンに降り注ぐ。
グッと近づいた顔が、そのままマガンの首筋に埋められた。東京にはない、シャングリラでの距離だった。敵がいつ襲いかかって来るかと、いつだってぴったりとくっついて。ふわりと香る柔らかな安心する匂いに、酷く胸がかき乱される。焦がれた夢の記憶がジリジリと腹の底を焦がす。気がつくと、あの時のようにその背中を抱きすくめていた。
マガンに比べると細く柔らかい髪にマズルを埋めると、肺一杯に懐かしい香りが広がった。幸福さと興奮にハァ、と熱い吐息を漏らす。首筋に人間の柔らかな皮膚の当たる感触がする。シャングリラでの夢の日々を想起させたが、ここはあの故郷ではなかった。あそこでは常に敵を警戒して気を張っていたが、ここにはそれがない。マガンの部屋には滅多に人が寄り付くことはなく、敵らしい敵はギルドのルールの敷かれたこの場には居らず、それにより産まれた余裕が別の感情を呼び起こす。これは欲だ。

「マガン、少し…甘い香りだ」

獣人のマズルとは違う、ふにふにと柔らかな鼻先と唇が首筋の薄い毛並みをなぞるように啄ばむ。甘い痺れがマガンの体を駆けた。尻尾の付け根がムズムズとざわめく。香りの正体は、きっと闘技場のシャワールームにあったバティムのソープだろう。置きっぱなしになっていたため、試合の後で汗を流すために適当に使ったのだ。徐々に上がる息に自分の昂りを自覚する。口の中が妙に粘ついた。欲望はひとつに集束する。ナマエを喰いたい。ナマエに喰われたい。ひとつになりたい。この存在と、分たれ難いものになりたい。

焦れたように頭を振って顔を離すと、ナマエの首筋を舐め上げた。ざりざりと舌の細かい繊毛が、毛皮のないなめらかな肌を這う。今まで喰ってきたものたちと変わらない肉のはずなのに、あまりの芳しさにくらくらする。そっと顔を離したナマエをぼんやりと見つめて、だらしなく舌を垂らす。マガンの顔を見つめたナマエはそのとろけた表情に小さく笑みを浮かべて、もう一度顔を寄せた。
マガンに比べるとずいぶんと細く、張りのある肉球も鋭利な爪もないすべらかな指先が被毛に覆われた顎の下を絶妙な力加減で柔らかくくすぐる。我慢出来ないと言わんばかりにぐるぐると機嫌良く音をならす喉に、マガンの目がとろんと落ちる。

「口、動かないで」

脳に散る言葉の意味を理解すると共に、マガンの口にそれより一回りも小さな唇が、優しく食むように噛み付いた。凶悪な歯列に巻き込まれぬよう、角度を変えながら小さな舌がマガンの口内を器用に動き回る。巨大な牙を引っ掛けないよう、マガンも舌だけ動かして小さなそれに自分のものを絡めた。

「ハァッ…ハッ…ン、ハ」

本能に飲まれそうな吐息がマガンの口から漏れる。頭の中が真っ白だった。ここにいる理由も、経緯も。世界すらも頭から溶け落ちた。ここがシャングリラだろうが東京だろうがどうでもいい。これさえあればいい。これと、ひとつになりさえできれば。喰うのも喰われるのもどちらでもいい。いや、どちらもしたい。たまらない。たまらない。我慢できない。

固定していた口を更に広げ、牙を剥く。そしてその甘い肉に噛み付こうとする、その前に己の舌先に鋭い痛みが走った。反射的に身を引いて驚きに口元を押さえる。舌に触れた指先は微かに赤い鮮血に染まっていた。

「ん、」

顔を上げたその先で、赤く染まった唇を拭って”ご主人サマ”が艶やかに微笑む。

「おいしい、マガン」

うっそりとしたその笑みに、体中が痺れた。
腹の底がぎゅうっとなる。あまりの幸福に涙が込み上げる。息があがる。たまんねェ。もっと喰ってくれ。もっともっと。全てがひとつに解け合うくらい。

続きを乞うようにナマエに手を伸ばす。しかし、その人はさきほどの甘やかな笑みとは違って、実に晴れやかにカラリと笑うとベッドから降りてマガンに向き直った。

「じゃあ、自分はそろそろ帰るよ」
「ンァ?ハ、…ナマエ、何言って」

この熱は当然まだ冷めない。引き戻そうと手を伸ばしたマガンの腕をさらりと避けて、ナマエは軽く笑ってみせる。

「夢はいいところで終るものでしょ?」

ナマエの言葉にマガンは眼を丸くした後で、未だこの身を火照らす熱を飲み込むようにグッと唇を噛んだ。まるで何でもないことのように笑みを残したナマエがマガンの部屋を後にする。遠ざかる足跡が、まるで夢の残滓のように暗い地下に木霊する。

追い縋るのも、負けた気がする。いや、すでに完全にやり込められているのだが。しかしそれが満更でもないのもまた事実で。ああ、でも足りない。一度抱いた欲は、より明確な形を持ってその身を苛む。心と欲望の狭間で頭を抱えたマガンの表情は、それでもほんの少し満足げだ。故郷の寝床とは似ても似つかぬ軋むベッドの上で、運命を信じるシャングリラの獣は昂った欲望を散らすようにゆらりと尾を揺らした。

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