「お前は気づいているはずだね?」
そう言ったときのナマエの顔を、マルコは忘れることができない。
ティーチがサッチを殺し、俺たちを裏切ったことで船には激震が走った。彼らは傍目に見ても仲の良い"兄弟"であったし、ティーチの実力がサッチに届く気配もなかったためである。何よりも昨日まで変わりなく同じ釜の飯を食っていた仲間が、そんなにも簡単に仲間に手を出した事実がにわかには信じられなかった。
サッチを失い、エースが飛び出していった船は一見してそうとは分からずとも、明らかに意気消沈していた。誰もが自分を責めていた。何故気づけなかった。何故止められなかった。何故。何故、と。
そんな中で隊長格を二人も失ったマルコの負担は小さいものだとは言い難かった。四番隊をまとめ上げる代理の抜擢から仇を打てと息巻くクルーたちを宥め、エースが抜けた二番隊の穴を埋めた。何かに没頭することで気を紛らわせたかったのかもしれない。しかし、才能のあるものは何事においても立ち直りが早い。クルーたちは考えていた。復讐よりも先に、このような悲劇を二度と繰り返さないために努力をしなくてはならないと。
ナマエが冒頭の台詞をマルコへ吐いたは、クルー一丸として、そのような意識を持ちはじめた頃だった。あてがわれた自室で書き物をしていたマルコは、その言葉に静かに戦慄した。
ナマエは、ティーチと大層仲の良いクルーだった。モビーディックの中でも古株で、先立つことをしない…典型的な縁の下の力持ちタイプの人間だ。今回の裏切りで最も心を痛めているのではないかとマルコが密かに心配している人物であり、そして同時に裏切り者と"繋がって"いるのではないかと危惧している人物でもあった。
言葉の真意を推し量ろうと注意深く見つめるマルコを、ナマエはいつもと変わりない様子で見つめ返す。冷えた沈黙が室内に落ちた。言葉が交わされることはない。
マルコはナマエが嘘をつかない人間だと知っていた。情に厚い人間で野心や欲望に乏しく実は仲間に甘い、そんな人物だ。マルコは分かっている。だからこそ自分にこうして声をかけ、だからこそ…ティーチを見捨てられないだろうことを。腹の中など探らなくとも、もうとうに分かっていた。ナマエが何故あいつに着いて行こうと思ったのか、理由は知らない。けれどなんとなく察することは出来た。今や船はティーチへの怒りで満ちている。誰もに敵とみなされたティーチを、きっとかわいそうだとでも思っているのだろう。覚悟の上でやった、許されないことであろうがそれでも。
きっとナマエは問えば否定しない。それを覚悟しているから、わざわざあんな言葉をかけたのだ。馬鹿だが…とてもナマエらしかった。
裏切り者が船にいるのは、危険だ。サッチの事件が脳裏に浮かんでマルコは硬く瞳を閉じた。もう、繰り返してはならないのだ。仲間を傷つけるような裏切り者を見つけたら粛清しなくてはならない。それは唯一の鉄の掟だ。
マルコは鋭い視線でナマエを見上げた。見つめられたナマエは、真っ直ぐにマルコを見返し、困った様に眉を下げて微笑んだ。
不意にそのときのことを思いだしてマルコは食事をしていた手を止めた。いつもと変わりない昼時の食堂は昼食を取るクルーたちで賑わっている。フォークを握ったままぼんやりと考え込んでいたマルコを見て、隣で唐揚げを頬張っていた十番隊の隊員が笑いながら口を開いた。
「マルコ隊長また野菜炒めっすか?肉食わないと体もたないっすよ!」
軽口を叩きながらサクリと次の一つにフォークを突き刺すクルーに「うっせえよい。重いもん食うと胃がもたれんだ」と返してグラスに口をつける。するとクルーは「おっさんくせぇ!」と言って腹を抱えて笑った。一発殴ってやろうかとジロリと視線をやると、クルーは通りかかった人影を見て咄嗟に呼び止める。
「ナマエさん!」
呼ばれたナマエは食べ終えた食器のプレート片手にこちらを振り返る。
「どうした?」
「マルコ隊長おっさんくさくて!」と笑いながらクルーが伝えるとこちらを向いたナマエがマルコを見ていつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべた。
「俺だってそう変わらないさ。なぁ、マルコ」
柔らかい調子で名を呼ぶナマエにマルコは「ああ」とごく短い返事を返す。軽口を交わす二人を見てマルコは心中で懺悔した。
気づいている筈だ、と問いかけられれば、確かに気づいてはいた。そして自分がどうするべきなのかもマルコは分かっていた。それでも。切り捨てられない。
その理由に、今度はお前こそが気づいている筈だろう、ナマエ。
お互いに気付かぬふりばかりだ。ナマエの裏切りにも、マルコの馬鹿な恋心にも。馬鹿な大人たちは蓋をして。そうして今日も危険は白鯨の腹で健やかに笑っている。