俗人の白日夢


「何!お前記憶喪失になったのかよ!ベポのことまで忘れちまうなんて!」


そう言ってシャチは大袈裟に驚いてみせた。何度目かも分からない問答に辟易して名前はため息を溢しそうになる。もう訂正するのも説明するのも面倒なので、あえて否定はしないことにした。もちろん肯定もしないが。考えてみれば彼らが俺の現状を知った所で事態が好転するわけでもないのだ。ともかく、何よりも今は俺を取り巻く全てを把握する必要があった。


「なあ、ベポは?」

「なんか名前に知らないって言われたみたいですっげー落ち込んでるぞ」


ほら、とペンギンが指差す先にはズーンと暗いオーラを纏ったベポが部屋の隅でうな垂れていた。随分と哀愁を誘う光景だが名前にはどうすることも出来ない。名前が出てこなかったのは事実だし、下手に声を掛けても更に落ち込ませる結果になるのは明白だからだ。名前にはそこまで責任を持つことは出来ない。


「記憶喪失って、だったら誰が分かるんだよ。名前、俺たちのことも分かんなかったじゃん」


シャチの言葉にペンギンがそういえばそうだ、といった顔をして俺を見た。俺は辺りを見渡してクルーと何やら話し込んでいるトラファルガー・ローを指差す。そして少しだけ自信の篭ったトーンで口を開いた。


「トラファルガー・ロー」

「当たり前だろ!!」

「指差すなってーのバカ!!」


ふたりに同時に勢いよくスパァン、と頭を叩かれる。普段の生活では滅多にされることのない行為に目を白黒させていると、隅っこにいたベポがひょこりと顔を覗かせた。


「名前、やっぱりキャプテンのことは忘れないんだね」


ベポの言葉に周りの奴らが「まあ名前だからな」と言わんばかりの表情で顔を見合わせる。忘れないというよりも知っていたから、という表現の方が正しい訳だが、周りのクルー達の反応が解せない。疑問符を浮かべる俺にシャチが「まぁな〜」と言って息を吐いた。


「お前キャプテンにベタ惚れだしな〜。だから今日のあの態度にはほんと驚いたぜ」

「ベタ惚れ…?誰が…、誰に?」

「お前だよ、お前。そのことは忘れてるんだな…。あれだけキャプテンに邪険にされてたのに都合のいい奴」

「……俺?……トラファルガー・ローに…?」


おかしい。どういうことだ?トラファルガー・ローは確か男じゃなかったか?実は女だったのか?…何を言っているか、よく分からない。


「キャプテンって呼べよ、名前。何でフルネームなんだよ」

「俺はクルーじゃないから…。さっきのはどういうことだ。トラファルガー・ローは女だったのか?」

「名前、前恋愛に性別は関係ないんだーって言ってたよ」

「そんでキャプテンにすんげえ嫌そうな顔されてたな。んで、バラされてた」

「まあ、実際船の上じゃ珍しい話でもないしなァ」


ベポ達の話を聞いて軽く眩暈を覚える。…聞かなかったことにしよう。それが最良の選択な気がする。


「…なぁ、俺がこうなった原因に心当たりはないか?普段と違ったことをしたとか。頭を強く打ったとか」


そう無理矢理話題を変えて問いかけるとベポ達は少し思案した後でそれぞれに口を開く。


「…寝坊、したくらいか?」

「特に変わったことはなかったけどなァ」


ペンギンとシャチが顔を見合わせながら呟く。そうか、と肩を落とすと、ふんふん唸っていたベポが明るい顔をして手を叩いた。


「そういえば島を出たよ。小さい無人島。水だけ補給してすぐに出航したけど」

「島…」


ベポの言葉に顔を上げる。小さな手掛かりだが、今の俺にとってはとても大切なものだった。もしかしたら、その島に行けば帰れるかもしれないのだ。


「…帰りたい」

「ノースブルーにか?まあ、随分と帰ってないからなぁ」


見当違いなことを言うシャチに息をつく。漸く掴んだ手掛かりは藁以上に細く、頼りなかった。



誰かの残骸


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