俗人の白日夢

その日の夜。海に落ちた後ずっと眠っていたらしい俺は、夜になっても元気が有り余っていた。なので、シャチに此処の文化や地理のことが書いてある本はないかと尋ねたところ「それならばキャプテンの書庫を見せてもらえ」と言われた。どうやらトラファルガー・ローは随分な読書家らしい。船の書庫はほぼトラファルガー・ローの書斎と化しているそうで、シャチに場所を聞いた俺はトラファルガー・ローに会うために船長室へ向かっていた。

それらしい立派な扉の前までやってくると、軽くノックをして応答を待つ。暫くして返ってきた「入れ」の声に室内に入ると、間髪いれずに本題に入った。


「トラファルガー・ロー、書庫を少し貸して欲しいんだが…」

「お前が書庫?…何をするつもりなんだ」


怪訝な顔をするトラファルガー・ローに面食らう。…この名前って男は一体どういう人物なんだ?どうして本を読みたいってだけでこんな顔をされる?


「…書庫ですることといったら本を読むしかないだろ。他のことをするつもりは、俺にはないんだが」


こちらも怪訝な表情でそう返すと、少し逡巡したトラファルガー・ローは手早くデスクの引き出しから鍵束を取り出し「来い」と言って室外へ歩き出した。それに従って俺も後に続く。案内された書庫はなかなか立派なものだった。船の中に設えられる書庫の大きさなど俺は知らないが、随分な規模なのではないだろうか。ずらりと最低限の隙間をもって並べられた本棚の中には所狭しと洋書が収まっている。この膨大な書架の中から目的の本を探すには骨が折れる。俺は扉口に佇む書庫の主を振り返った。


「地図や、世界の文化について書かれた本は何処にある?」


俺の問い掛けにトラファルガー・ローは無言で棚のひとつを指差す。その棚に腰を落としてWORLDMAPSと書かれた本を手に取る。その中綴じに折りたたまれたページを開いて俺は眩暈を起こしそうになった。全く、見たことのない地形だ。俺のよく知る世界地図とは大幅に異なっている。地図の中心にはREDLINEと称された巨大な大陸が跨っている。そしてそれと垂直になるようにしてGROUNDLINEと書かれた海路が交わり、世界を四断していた。グランドラインーー。作中で何度も目にした言葉である。いよいよ現実味を帯びてきた絶望感に言葉を失っていると、いつの間にか背後にやってきたトラファルガー・ローがトン、と地図の一部を指差した。


「今は、だいたいこの辺だ」


予想外の言葉に面食らいつつも、正直ありがたかったので「ありがとう」と返す。トラファルガー・ローはお礼を言った俺を見返すとフン、と息を吐いた。ついでに俺は最も知りたいことを聞いておくことにする。


「前に上陸した無人島は何処なんだ?」

「…詳しくはログを見てみないと分からねぇが、だいたいこの辺りだな」


指差された位置は意外と離れている。


「…こんなに遠いのか?」

「普通だったら此処までは離れられないが、今回は特別船足が速かった。航海士が目を丸くしてたからな」


それはいい風が吹いた、とトラファルガー・ローは語る。それは船乗りにとっては良いことかもしれないが、俺には百害あって一利なしだ。確証があるわけではない。もしかしたら、何も関係ないかもしれない。けれど今の俺には他に手がかりがなかった。


「…戻っては、くれないか…?」


トラファルガー・ローの目を真っ直ぐに見つめる。彼は俺の視線を大した風もなく見返した。無茶を言っているのは分かっているつもりだ。それでも。


「何故だ」

「帰りたい」


トラファルガー・ローの問いに間髪いれずに答える。彼は俺の言葉を予想していたようで続けて「何処に」と問い掛けた。


「…元に」


俺の回答にトラファルガー・ローは怪訝そうに僅かに顔を顰める。


「航路は変えない」

「……そうか」


俺だって社会人だ。自分がどれほどの無茶を言っているかは承知している。頼る者のいないこの世界では、自分で行動するしかない。誰も助けてなどくれないのだから。ましてや理解など。


「(だったら、次の島で降ろしてもらうしかないな)」


そう結論付けた俺はたいして食い下がるでもなく手元の本に視線を落とす。異国の地図は俺にはあまりにも大きすぎた。



わたしの世界線はまだ遠い


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