俗人の白日夢
それは子供らしくない子供だった俺に、両親が買い与えたものだった。話題になっている、人気の少年漫画。対して興味もなかったが何と無く購読しながら、家を出て社会人として自立した今も惰性のように買い続けていた。最近では買うだけ買って読んでいなかった、内容すら危ういそれ。どうして、そんなフィクションの人物が俺の目の前に、居るのか。


「(なんだこれは…。夢か?)」


それにしてはあまりにもリアルだ。こんな現実味求めてない。俺は。

しかし何と無くではあるが、己の立ち位置が分かってほんの少しだけホッとする。どうやら犯罪に巻き込まれる等の命に関わる最悪の結果には至っていないようだ。今のところは。しかし現状をきちんと理解していないという点においては何も変わっていない。依然難しい顔をしていると隣に座ったペンギン帽子の男が口をあんぐりと開けて呆然と呟いた。


「名前が…キャプテンに反応しない…」


だから、何だというのだ。今俺はそれどころじゃない。


「なあシャチ!名前がキャプテンに反応しねぇ!」

「おいおい…大丈夫か名前?どうした?」


どうやら俺の隣に居る男はシャチというらしい。なんだか良く分からないがこちらを心配する素振りを見せる二人に俺は息を溢す。


「俺は、名前じゃない」

「は?何言ってんだよ。寝ぼけてんの?」

「お前が名前じゃなかったら誰が名前なんだっつーの」


俺の第一声は容易く否定されてしまう。俺は辟易した思いで続けた。


「俺は名前だけど、あんた方の知ってる名前って奴とは違うんだって。人違いだ」

「何言ってんだよ?顔も声もなんもかも普段の名前じゃん。確かにいつもと違くはあるけどよ。病気?」


そう言ってペンギン帽子の男が俺の頭をわしゃわしゃと掻き撫でる。俺は顔を歪めてその手を振り払った。何で初対面の男にこんなことされなけりゃならないんだ。


「やめろ!大体あんた誰なんだ!」

「はあ?!お前ふざけるのもいい加減にしろよ!」


俺が叫ぶとペンギン帽子の男は怒ったように眉を寄せて腕を振り上げた。それを制してシャチと呼ばれた男が俺を心配そうに見つめる。


「よせってペンギン!名前どうしたんだ?ほんとに調子悪いのか?」


本気で俺を慮っているそれに眩暈がする。何なんだ本当、これは。悪い夢だ。そろそろ覚めてくれないと、面白くも無い。


「ああ、最悪だよ。俺は、あんたのことも知らない。シャチさん」


そう言って俺は立ち上がった。ふたりが困惑した瞳でこちらを見上げる。それに居心地の悪さを感じて視線を逸らすと、少し離れた位置で食事をとっていたトラファルガー・ローが億劫そうに口を開いた。


「名前、飯くらい大人しく食え」


どうして漫画のキャラクターが、俺の名前を呼ぶんだ。周りの人間のホッとしたような表情が何だか癪に触った。悪夢か、これは。


「…起きる」


そう言ってズカズカと歩き出した俺に周囲が目を見開く。信じられないものを見ているかのような表情だった。颯爽と入ってきた扉から外へ出るとシャチ、か何かの「待て!名前!」という声が聞こえたが俺は振り返らなかった。これは夢だ。夢なら、覚めるはず。彼らは確か海賊なのだから恐らくこれは船の上だろう。だったらきっと、冷たい海に飛び込んだり、死んだりしたら目が覚めるはずだ。土地勘はないが上に向かっていればきっと外に出られるだろう。俺は無数にパイプの張り巡らされた見知らぬ長い廊下を適当に歩き始めた。


あなたは決して信じようとはしない


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