俗人の白日夢
お前っていっつも最後にそれ食べるよなあ。
昼の食堂。わいわいと賑やかな喧騒の中で、ふと耳に留まった言葉に振り向く。フロアの端のテーブルにいるのは、プレートを手に持って席につこうとするシャチと今まさに食事中の名前だった。

「好きなんだよ…」

バツが悪そうに視線を落として名前が答える。名前の口から出た言葉のあまりの自然さに、ローの口元は思わず笑みを形取った。
名前に好きなものが増えていく。習慣とも呼べる動作が増えていく。その度にローは心が踊って仕方ない。それは名前が、この生活に馴染んできているということだからだ。奴のフラフラとした所在のなさに比べると微々たる変化だが、名前の所作から滲み出る日常感は、ローにささやかな安心を与える。

ここ最近の名前は何かを考え込んでいるようだった。先日の質問もさることながら、どうやら核心に近づいているような様子がある。こちらから仄めかしていかずとも自分から近寄ってきてくれるのはありがたいことであった。
どうか、それがそのまま良い方向に向き、そうして全てが当たり前になっていけばいい。定位置の寝床も、好きな料理も、気に入った本も、俺の隣で浴びる太陽も。何もかもそれが名前の中で日常になってしまえ。
そうすれば、この場所を離れようなんて馬鹿な考えは浮かばなくなる。この場所こそがお前にとっての最良なのだと。


そこまで考えたところで、船内に激しい警報音が鳴り響いた。敵襲だ!という伝音管からの声に、その場にいたクルー達は訓練された手際で素早く動き出す。

「4時の方角に敵海賊船!繰り返す!4時の方角に敵海賊船!」

ローは近くにいたクルー達に的確に指示をこなしながらチラリと名前のいた場所を伺った。しかし、そこに名前の姿はない。

「おい、名前はどこだ?」

慌ただしく駆け回っていたクルーの1人を捕まえて問いかける。そして、シャチが"以前と同じように"前線に連れて行った、という返答に舌打ちをして、甲板へ向かった。



渡されたのはいわゆるカリブの海賊が持つような湾曲した剣だった。名前はなんというのか分からない。そんなことはどうでもよかった。ずしりと重い銀色が俺の手の動きに合わせて鈍く光る。これから"敵"がここにやってくるのだ。明らかな害意を持って、俺を殺しに。

生まれてはじめて訪れた明確な命の危機に体の芯が冷えていく。ここへ来て2度目の、あるいは1番のひっ迫した恐怖だった。握った武器を見下ろして途方にくれる。あまりの現実味のなさにクラクラした。こんなもので身を守れるのか?周りを見渡して考える。皆は流れるように動いていた。そこには緊張はあれど、恐れや、今自分が感じているような絶望感はない。彼らにとってこれは日常の延長なのだ。当たり前だ。彼らは"海賊"なのだから。

「(ーー逃げよう)」

そう決めた瞬間、周りから声が上がる。「接近!」という誰かの声と共に船体が大きく揺れた。強い衝撃にハッとして顔を上げると大きな船首が頭上に影を落とすのが見えた。船体で体当たりされたのだ。船首の奥から咆哮が上がって知らぬ顔がぞろぞろと現れる。ーー敵だ。

そう理解したのもつかの間、猛烈な音の奔流と共に戦闘が始まった。剣戟の音。怒声。歓声。銃撃音。ありとあらゆる音が船上を駆け巡る。
その全てに翻弄されつつも、とにかく乗り込んできた敵が自分を見つける前に船室に逃げ込もうと駆け出した。

本当なら頭を低くしたほうがいいだろう。壁際を背に移動した方がいいだろう。そんな冷静な判断も出来ぬまま、ひたすら一目散に、最短距離で船内への扉を目指す。
幸いにもクルーたちは目の前の敵に夢中で、即座に踵を返して走り出した記憶喪失のクルーのことなど気にしていない。呼び止められないことに安堵しつつ人の密集している箇所を避けようと視線を巡らせて、ギクリと足を止めた。槍を掲げるペンギンを後ろから、剣を構えた男が狙っている。ペンギンは目の前の敵に夢中で気付いていない。

「ペンギン!後ろに!!」

気がつくと叫んでいた。
俺が声を上げるや否やペンギンがその場から飛びのいて体勢を立て直す。ホッとしたのも束の間、武器を持った見覚えのない…つまりは仲間ではない男と目が合った。
しまった、と思った時にはもう遅い。こちらに標的を合わせた男が距離を詰めてくる。
船尾は狭い。ジリジリと後ずさっていると、すぐに壁に背が付いてしまった。これ以上は下がれない。
剣を握る手が汗でぬるつく。ともすれば唯一の武器を取り落としてしまいそうだった。男が、足を止めてこちらの様子をうかがう。まるで時が止まったかのように一瞬一瞬が長く感じた。どうすればいいか分からない。相手がどう出てくるか分からない。緊張でどうにかなりそうだった。いっそこちらから切りかかってみるか?それか命乞いでもしたらなんとかなる?どうしようもなくて、とりあえずそれっぽく前に突き出して構えた剣の切っ先が震える。

睨み合っていると目の前の男が不意にハ、と短く息を吐いてこちらに切りかかって来た。反射的に剣を動いた方に動かす。金属同士が甲高い音を立ててぶつかり合う。衝撃で刀身が弾かれた次の瞬間、相手の刃がひるがえったかと思うと、利き腕を斬りつけられた。
何が起こったのかも分からないまま、腕に今まで感じたことのないような鋭い痛み走る。痛い。怖い。
反射的に切られた箇所を片手でぐっと押さえる。呼吸が乱れて、胸が痛い。喘ぐような呼吸で目の前の男を見つめた。男が俺を見てニヤリと笑う。

「素人か」

かろうじて武器は落とさずにいたが、その言葉に絶望が湧き上がった。自分の凡人っぷりは相手にバレている。さっきだって何も出来ないうちに斬られたのだ。俺の技術力では、いくら身体だけは鍛えられているとはいえ、つばぜり合いになる前に刀身を弾かれてしまう。今だって、剣を持っていられるのでさえ、本物の"名前"の恩恵があるからにすぎない。何をしても今みたいにひらりと剣を捻られて切り刻まれるのがオチだろう。深い絶望が世界全てを包み込む。

次の瞬間、男が素早く足を一歩踏み出してきた。真っ直ぐにこちらに突き出された切っ先をなんとか避けようと左に飛び退く。逆側の肩に激痛が走った。胸を突かれるのは避けたが、膝から力が抜けて大きく体勢が崩れる。男は余裕の笑みを浮かべていた。

きっと彼にとっても、これは日常なのだろう。このままこいつは俺を殺して、いつものように明日を迎えるのか?まるでなんでもないことのように。この男は。この世界は。そんな。こんなことが。

「おい」

その声は決して大きいわけではないのに、戦場によく響いた。

「し、死の外科医!」

あたりの注目が一瞬にしてその声の持ち主に移る。
上部デッキから船尾を見下ろしたトラファルガー・ローは、こちらをチラリと見ると勢いよくデッキから飛び降りた。比較的人の少ない場所に着地を決めると、歓声と怒号が同時に上がる。

「キャップテーン!」
「ステキー!」
「億の首だァ!」
「殺せェ!!」

敵が一斉にトラファルガー・ローを警戒しつつ囲むような体制をとる。味方たちは船長を援護するように距離を開けてその様子を見守った。目の前の男もこちらに背を向けてトラファルガー・ローに釘付けになっている。もはや素人のこちらのことは頭から抜け落ちているのか、無防備に晒された背中にぼんやりと視線を向けた。

今なら、刺せる。

手のひらの凶器を強く握りしめる。先ほどの男の、こちらを傷つけることに何の感情も抱いていない目を思い出した。斬りつけられた傷がジクリと痛みを主張する。いいのだと、言われた気がした。

膝に力を入れて立ち上がる。何だか泣きたいような気持ちになった。剣の重みに利き腕の傷から血が溢れる。両手で切っ先を真っ直ぐに、つかを握る。身体ごと足を踏み出す。そして。

「ぁぐあッ」

体に柔らかくかたい感覚と抵抗と衝撃が伝わる。つか越しの感覚に、意外にも人の体は深く刺そうとすると硬いのだということを知ってしまった。男が暴れたので固く刺さった剣は手放して後ろに下がる。

「てめえ…ッ」

燃え上がる憎悪を宿した瞳が俺を見つめた。男の足はがくりと力を失って、その場に膝をつく。血がぱたぱたと少しだけ床を汚した。その様子を見つめて息を飲んだ瞬間、聞き慣れた声が鋭く耳朶を打つ。

「ROOM」

声と共に色を持った光の膜が展開される。

「オペ開始…」

次の瞬間、目の前の男を含む周囲全ての敵が五体バラバラになった状態で宙に浮いていた。長大な剣を持ったトラファルガー・ローがその奥で静かにこちらを見つめている。

己の手の中の剣に視線を落とす。受け取った時には銀色に輝いていた刀身は、今は鮮血に汚れていた。ぼんやりとそれを見つめていると、不意に床に影がさした。顔を上げると、いつの間にか目の前に立っていたトラファルガー・ローが俺の持つ剣を見つめていた。

「よくやった」

こちらを褒める意味を持つ言葉だ。この人は俺の行いを肯定している。俺が。やったことなのだ。今確かに俺は。ああ。そう。そうなのか。…そうか。

「さっさと傷の手当てに行ってこい。雑菌が入って炎症を起こしたら面倒だ。あと、お前にカトラスは向いてねェ。使うなら、銃にしておけ」

トラファルガー・ローはいつも通り、何を考えているのか分からない無感動な視線を俺に向けるとこちらの背中を軽く叩いた。衝撃が傷に響いて、呻き声とも悲鳴ともつかないひきつれた声が喉から漏れる。色々あって忘れていた、安全圏へ逃げ出すという当初の目的を思い出して、これ幸いとその場を後にした。トラファルガー・ローの気が変わってもっと働けなどと言われてはかなわない。
一刻も早くこの場から離れようと返事もそこそこに立ち去った俺の背を、深い隈の刻まれた真っ黒な瞳が静かに見つめていた。


攻撃のクオリア
- ナノ -