俗人の白日夢

トラファルガー・ローの唇は薄くて少し冷たい…ということを、知ってしまった。それは、俺が識らない。知り得ないはずのことだったのに。

1日ぶりのシャワーを浴びた俺は機嫌よく、すっかり慣れた船長室を訪れた。すでに自分の中でこの世界で1番の居場所だと認定したソファーへと座ろうとすると、そこに先客が居たことに気付いて、はたと足を止める。珍しいことに、そこには読みかけと思わしき本にかろうじて指を引っ掛けたような状態で眠るトラファルガー・ローの姿があった。
ソファーの肘掛にゆったりと体を預けて寝息を立てる様子に、どうやら本気でうたた寝をしてしているようだと自然と忍び足になる。所在もないので、そろりそろりと慎重にソファーの反対の端に腰を下ろすと、上等なスプリングは小さな揺れのみで衝撃を柔らかに飲み込んだ。

目をそらさずに様子をうかがうが、特にトラファルガー・ローが起きだす気配はない。
出来ればすぐに寝っ転がりたかったとちらりと部屋の真ん中に大きく鎮座するベッドに目をやるが、さすがにそれは非常識だと名残惜しくも視線を逸らした。他に見るものもなく、なんとなく吸い寄せられるように目の前の人物に視線が向く。
こんな機会もあるまいと深く考えず身を乗り出して目の前の人物を見つめた。今まで何度となく繰り返し確認するように眺めた、漫画で見たのと寸分違わぬ顔が、そこにはあった。

整っていると、同性ながらに思う。
色濃く染み付いた隈は不健康極まりないが、彼の雰囲気にはどこか合っている。閉じられた瞳は穏やかで、起きている時よりも年若いような印象を受けた。こうして間近で改めて見つめてみると、普段の自分がどれだけ記憶のイラストになぞってトラファルガー・ローを捉えていたのかがよく分かる。
漫画と比べるのでなく、ただ目の前の人物を見つめる。ここにいるのは確かに、現実の人間だった。その事実が胸に突き刺さる。この男は自分にとって、異界の象徴なのだから。

ワンダーな現実が目に痛くて顔を背けて離れようとしたその瞬間、いきなり腕を掴まれた。あまりの驚きに戦慄きながら振り返ると、ソファーで寝ていたはずのその人はまるで先ほどから起きていたかのようなハッキリとした目でこちらを見つめていた。

ギョッとして後ずさろうとするのを腕で押し止められて阻止される。退路を断たれてしまい、思わず敬語で「すいません…」と謝った。トラファルガー・ローは俺の言葉には反応を返さず、じっとこちらを見つめる。あまりの気まずさに目眩がした。


正直この辺のことはあまり覚えていない。
ただ鮮烈に記憶に残るのは到底予想もしていなかった、たった一言の要求。

キスをしろ、と言ったその人の目は、逸らされることなくこちらを見つめていた。まっすぐなその視線を思い出して罪悪感のようなものが湧いてくる。そう乞われたとき少しだけ、迷った。それがどのような類いの迷いだったのか、今ではもう思い出せない。

俺はトラファルガー・ローに応えられない。
ここが漫画の世界である以上。彼がそのキャラクターである以上。帰ることを、諦めきれていない以上。
怖いのだ。何もかもが。
こんなところに来なければ男とキスするはずもなかった俺と、ここに俺がいなければああはならなかったであろうトラファルガー・ロー。考えることは怖い。思考のドツボに沈んでいってしまいそうで。先が何もわからないから、必ず最悪のそればかり想像してしまう。ならば、穏やかに何も考えずにいたかった。せめて、心のみは平穏で。
考えてみれば、ここ最近の俺の行動は自身の心の平穏を保とうとするものばかりだった。”名前”の過去の詮索も、彼の俺への感情の確認も。
理由が欲しかったのだ。だって、不確かなものに縋るのはあまりにも恐ろしい。しかし分かったのは現実、今俺が縋れるのは物理的にトラファルガー・ローだけだという事実だった。応えることはできない。けれど決して失えない。彼と俺はあまりに、真っ当に向き合うには歪すぎる関係だ。

結婚なんて言葉を吐いたのは、何でもいいからこの空気を変えたかったからだった。こちらを見つめる男の瞳があまりにも真摯で。だからまるで誓いのキスでもするのかと思った。あとはもう連想ゲームだ。
巡った思考に湧いた後味の悪さと罪悪感を誤魔化すために呟いた言葉にトラファルガー・ローは目を丸くすると、珍しく含みを持たせることなく明け透けに笑った。その表情があまりにも嬉しそうで。ああ。

不誠実で打算的な自分と、不可解で応えられなくて、けれど決して失うことのできない彼に、心が切り裂かれる。思考はもはやグチャグチャで、浅ましくも必死に保とうとしてきた均衡も、あっさりと突き崩されてしまう。きっと、目の前のこの人物が自分にとってこれほど魅力的でさえなかったら、こんなに苛まれなかったのだろうと、それだけ矮小に認めてうなだれた。


懺悔には足りぬ独白
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