それはきっと、香りのせいだったのだと思う。
夢をみた。俺の目の前に、ふたりの名前が現れる夢だ。
ふと気がつくと船の甲板にいた。何も考えず辺りを見渡して、少し離れたところに見慣れたツナギ姿を見つける。こちらに向けられたふたつの背中は船縁から水平線の方を眺めていた。近づくとそれが、同じ人物であることに気付く。名前。今、俺の心を捕らえて離さない男。
ふたりの名前はおもむろに視線を巡らせると、同時にこちらを振り返った。底の見えない、深海をのぞむ窓のような瞳が二対、俺を見つめる。そのうちのひとりは俺の姿を認めると途端に目を輝かせて一目散に駆け寄ってきた。その口はキャプテン、というありきたりな呼び名で俺を呼ぶ。伸びた手のひらが頬に触れた。愛してます、という言葉が鼓膜を震わせる。しかし、それはただの一瞬さえも、俺を捕らえることはなかった。
目の前のそれには目もくれず、俺は微動だにしないもう一人を見つめる。その男は振り向いたときと変わらぬまま、ただこちらを見ていた。
その在り方はあまりに静かだ。俺を見つめているのに、俺自身にはカケラの興味も抱いていないような気がした。
男はゆっくりとまばたきすると、不意にこちらから視線を外す。焦った俺は纏わりつくもう一人を押しのけて男に駆け寄ろうとする。ふ、と視線の先の名前が再度こちらを向いた。唇が小さく動いて言葉を吐くが、遠すぎて聞こえない。そのまま名前の身体が大きく傾ぐ。落ちる。名前の様子がおかしくなって、海に飛び込んだ時のことを思い出した。名前の身体と共に世界も同時に海に傾く。視界が反転して落ちていく。空の青が。帆の白が。飛沫の青が。綿雲の白が。深海の、底に。
弾むような微かな衝撃で目が覚めた。スプリングの軋む音で自分が自室のソファーでうたた寝してしまったのだと思い出す。隣に人が腰を下ろした気配がしたが、ふと思い立って瞳は開けずにおいた。勝手に部屋に入ってきて人のいるソファーに座る人物など、一人しか思い浮かばなかったからだ。
じっとそのまま寝たふりをしていると、微かな視線を感じた後、ギシリと何かがこちらに身を乗り出した気配がした。何を、しているのだろう。視覚がない代わりに他の機関で様子を伺おうとするが、音も気配もそれ以上動くことはない。不意に、慣れない香りが鼻をくすぐった。そして、眠る前にソファーに転がった時のことを思い出す。この部屋で唯一、俺が気付くほど異なる匂いがするもの。その理由。そして目の前から香る、ソファーより強いそれ。
「(だから、あんな夢をみたんだ)」
名前が眠る、その香りが強い場所で眠ったから。
そう、自分に言い訳でもするかのように考えて、微かに瞼に力を込める。すると、あまりにもタイミングよく目前の体重が離れようと動いたので、咄嗟に手を伸ばして何かをつかんだ。同時にパチリと目を開けると驚きに見開かれる名前の瞳が飛び込んでくる。飛び上がりながら後ずさろうとするのを、掴んだ腕にぎゅっと力を込めてこの場に押し留めた。
「うわっ!え…っあ」
まん丸に開いた瞳が、俺に掴まれた腕を視界に入れると、もう一度軽く見開かれてから気まずそうに下にそらされる。驚きにころころと変わる表情を俺は息もつかずに見つめた。こんな風に表情を変える名前を見るのは初めてだ。泣いているところも怒っているところも見たが、こんな顔を…しかもこれほど近くで見たのは俺だけではないかと考えて機嫌が良くなるのを感じる。名前は俺の変化には気付かず、息を飲むようにきゅうと目を細めた後で「す、すいません…」と呟いた。
「あの…離し…」
「離して欲しいか?」
「まぁ…はあ」
いつもの泰然とした様とは違い、明らかに動揺した様子に嬉しくなる。
この距離を許容したのか。何故あんなにも近づいてきたのか。何をしていたのか。何を感じたのか。
聞きたいことは尽きないが、それよりもこの男がさらに様相を崩すところがもっと見たい。ふと夢の内容を思い出して、ひとつの思いつきが頭に浮かんだ。
「じゃあキスをしろ」
「………ええっ?…!」
少しの間をおいて目の前の瞳が大きく見開かれる。まじまじとこちらを無言で見つめた後で、困ったように眉根が寄った。
「冗談…?」
「じゃねぇ。早くしろ」
想像よりも渋い態度に腹の底から不満が湧き上がる。考えさせるのはやめた方がいいだろう。アレコレと余計な考えを巡らせられると厄介だった。
それが名前の中で、どんな結論をもたらすのか、俺には予想がつかない。
掴んだ腕を引き寄せると体勢を崩しそうになった名前が慌ててソファーの端を掴んだ。しかし傾いた身体は僅かに俺に寄りかかる。風呂上がりなのだろう。名前の髪から滴った雫が俺の膝にぽたりと落ちる。お互いの瞳から目が反らせない。
心臓が明らかにいつもより早いリズムで脈打つのを感じる。名前の態度には不満が残るが、今この瞬間のこれは、悪くない。
名前の瞳が揺れる。そして小さく息を飲むと「分かった」と呟いた。もっと色々と思い悩むだろうと思っていたので、その潔さに思わず瞠目する。名前の指がするりと頬に添えられた。夢の中で同じようなことがあった気がしたが、その時とは全く違う手付きだった。
秘めやかさがあった。目の前の名前にしかないものだ。柔らかく触れる温度が、唯一のこの男のものなのだと実感して胸が熱くなる。冷静でいられなくなる。あァ、柄じゃねぇな。
緊張した面持ちの名前の顔が近づいて、そっと唇が重なった。触れたそれは存外に熱く、離れてなおも俺の唇に感触を残す。
所在なさげに目を伏せた名前は視線を彷徨わせた後で何気なく呟いた。
「あんた…、……結婚でもしたいのか?」
は、結婚?
予想もしなかった言葉に俺は弾かれるように声をあげて笑った。
想像も出来なかった。この男は存外に潔く、そして随分と。
「強欲なんだな、名前」
夢の中で海に沈んだ男は、心外だとでも言いたげな表情で俺を見つめる。唇に残る温度が確かに、男が今俺の隣にいることを告げていた。ただそれだけのことで俺は、自分でも意外なほど満足してしまったようだ。
夢よりさらに欲深く