俗人の白日夢
名前が逃げ出した。過程や理由は関係ない。ただそれだけが結果だった。

すぐさま町に出ているクルーたち全員に伝達してロー自身も探しに島へ上陸した。勝手について来たペンギンやシャチたちと共に当ても無く島中を探し回って、もう日も暮れた頃に奴を見つけた。水平線を見つめてぼんやりと海岸に佇む名前は、何かを待っているかのように見えた。表情をうかがい知ることは出来ない。祈っている、ようにも見えた。
ROOMを使おうとすると、その前に大きく名前の名を呼んだシャチが勢いよく駆けて行く。逃げ出すかと思いローは身構えたが、名前はゆっくりとこちらを振り向いただけだった。シャチが勢い余って名前の身体に体当たりする。ふらつきながらも何とか耐えた名前は静かにシャチの名前を呼んだ。続いてその瞳がローたちの方を見つめる。その双眸に、最後に見たときのような怒りは存在していなかった。


「どうしたんだよ名前!どうやって逃げ…っていうか勝手に行ってんじゃねぇよバカヤロー!」


シャチの言葉に名前は小さく「ごめん」と呟き返す。そしてローのことを見つめると「あいつのせいじゃない」と静かに言った。あいつとは名前が逃げ出す手引きをしたバンダナのことを言っているのだろう。ローは元々バンダナに対しては多少のペナルティは課すつもりでも、そこまで怒りを感じていない。誰かに名前を任せたのは、明らかに己の失策だった。この男を手に入れるために必要なのは抑圧の類ではないのだ。今必要なのは名前を逃がさない手段ではなく、彼自身を自らの意思でローの傍に留まらせるための理由だった。

誘い込むのはローの最も得意とする手法だったが、焦るあまり完全に方法を誤っていた。ローはこの男を手に入れたい。しかし名前は常に不安定な人間である。だからローはとにかく自分の傍に留まらせることばかりを優先してしまった。それを望むなら、彼自身の意思でなくてはならないのだ。至極簡単な、しかし奪うことに慣れてしまったローにとっては忘れがちなことだった。

この男を手に入れるためには死力を尽くさなくてはならない。怒鳴られようと逃げられようとローは名前を諦めることなど出来ないのだから、どれだけ無様であっても奔走し続けなくてはならなかった。


「お前はどうしたいんだ」


ローは真っ直ぐに名前を見つめて問いかける。浜辺に響いた声に、名前は僅かに目を見張ってから静かに答えた。


「…帰りたい」


かねてからの願いだった。名前の顔が微かに歪む。決して悲しんでいるわけではない、何かに耐えているような表情だった。クルーたちのような明け透けさがない名前の表情はいつも複雑だ。ローにはそれがどんな感情を湛えているのか分からない。


「無人島に行きたい。あそこで全てが始まった。だからあそこに行けば、帰れるかもしれない」


そうだ、全てはそこから始まった。突然変貌した名前は以前の記憶と共にローに対する迷惑じみた恋情を全て綺麗に失ってしまった。しかしそれはローにとっても清々することだった筈なのだ。それなのに今ではローの方が名前に並々ならぬ恋情を抱いている。冗談のような、しかし紛れもない現実だった。これは一時の夢などではあり得ない。夢には、させない。


「賭けをしないか」


ローが名前を見つめてそう言い放つ。「賭け?」と名前が小さく繰り返した。


「お前が何を考えているのかは俺には分からねェ。帰るっていうのが例の島へなのかも、それとも他の場所へなのかも。ただ記憶を取り戻そうとしているのかもだ。そんなことはどうでもいい…が、重要なのは結果だ」


名前が不可解そうに眉を顰める。一歩、彼へ近づいてローは続けた。


「お前を例の島まで連れてってやる」


その言葉に名前が目を見開く。「本当か?」と念を押す名前に一つ頷いて「ただし」と言葉を続けた。


「島に着いてお前がもし"帰れな"かったら、俺のものになれ」


その条件に名前は息を飲んだ。全く、予想もしていないことだったのだ。ローは静かに名前を見つめた。

島に着いても何も起こらなかったら名前の負け、ローは名前を手に入れることができる。島に行って、どのような形であれ今の"名前"を失ったらローの負け、その場合名前は恐らく帰ることができているだろう。
名前は固く目を閉じた。悔恨のような、諦めのような感情が湧き上がってくる。自分のことが心底嫌になりそうだった。けれど、答えはもう決まっている。


「…分かった」


名前の言葉に様子を見守っていたベポたちがホッと息を付いた。顔を上げた名前はゆっくりと彼らに歩み寄る。名前が賭けに負けたとき、それは二度と帰れないことが確定したときである。行き場のなくなった自分を拾ってくれるというのなら、それは非常に都合が良いことだった。自分が被る不利益は、その場においては存在していない。

自分の計算高さが嫌になった。やはり打算と惰性で生きている自分には、この世界はあまりにも相応しくない。何故か、今はそれを悲しいと感じた。



わたしは足りない


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