ブーツの裏に、ざらりとした砂の感触。目立たない入江に停泊した船の死角から下船した名前は、確かめるように何度も砂を踏みしめた。はじめての陸上である。久しぶりの大地はどこか懐かしく、名前はバンダナから渡された地図を片手に弾むように駆け出した。
彼に聞いたところによるとここは小さな春島らしい。つい半日ほど前に浮上し、上陸したこの島は主に漁業による交易で生計を立ており、他のクルーたちは皆その中心となる町へ向かっていた。ベポたちならまだしも、トラファルガー・ローに見つかったら終わりである。なので中央の町へは近寄らず、島に点在する漁村を目指して海岸沿いを歩くことにした。
何もない砂浜をこうして一人で歩いていると、今までのことがすべて夢だったような気持ちになる。しかし、現実として俺が着ているのはトラファルガー・ローたちハートの海賊団のツナギで、気休め程度に変装として頭にバンダナを巻いている程度の、現実的にいえばコスプレ紛いの格好なのだから、笑えない。
複雑な思いを振り払うように頭を振ってひたすら村を目指した。今はとにかく、あの島の情報を集めることだけ考えていれば良い。暫く間、無心に海岸沿いを歩き続けているとようやく小さな村が見えてきた。海岸に見える船や人影に嬉しくなって思わず走り出す。
「すいません!」
海辺で網をいじっている人影に声を掛けると人の良さそうな漁師らしき風体のおっさんがこちらを振り返った。俺はすかさず手にした地図を広げて例の島を指差す。
「あの!この島に行きたいんですが…行き方をご存知でしょうか?」
「ぁあ?…随分小さい島だな。兄ちゃん船乗りか何かか?」
「まあ…そんなもんです。無人島らしいですが、どうしても行かなくちゃいけないんです」
そう強く訴えた名前に漁師は首元を摩ると「おーい!」と他の漁師を呼び寄せた。周りにいた数人の男たちが呼び声を聞きつけて「どうした?」と集まってくる。先程と同じ説明を繰り返すと暫く心当たりを聞いた後でその中のひとりがそういえば、と口を開いた。
「俺たちはこんな方まで漁には出ないが、確か親父が行ったことがあるって話を昔聞いたなァ。以前は不漁が続いたとき、この辺まで出ることがあったらしい」
「本当ですか!」
「ああ。近くはねぇが周りになんもねぇからなぁ。食いつなぐ程度には獲れたって話だ」
その言葉に名前は表情を輝かせる。問題なく行くことができるのだと考えると目の前が明るくなった気がした。
「どうしたら行くことが出来ますか!島まで漁に行っている方はいないでしょうか?」
「わざわざ行く奴はいねぇだろうが金さえ払って頼み込めば誰かしら渡してくれるかもな。しかし、何だってあんな島に用があるんだ?」
不思議そうな表情をする男を見つめて名前は「そうだ!」と喜色を浮かべる。ここで情報を少しでも集めたら、何か帰る手がかりが見つかるかもしれない。藁にもすがるような思いで名前は口を開いた。
「あの…あの島に行っておかしくなった人とかはいますか?…記憶喪失になって帰ってきたとか、人が変わってしまったとか。何か祀られていたとかいう伝説でもいいです。何でも…変わったことがあったら教えてください!」
必死に言い募る名前に漁師たちは「そうだなぁ」と言って首を捻る。しかし誰もが顔を見合わせて首を横に振った。そんな風になった者は一人もいないという。伝説どころか人の住んだところも見たことがない。一時期探検家の類が上陸していたこともあるようだが、何もありはしなかったという。ジャングルと真水が少し湧くばかりの、小さな島らしい。漁師たちの話を聞いた名前は「そうですか…」と静かに肩を落とすと彼らに深く頭を下げた。
ひとりふらふらと当ても無く海岸を歩き出す。金は元の"名前"のものと思わしき貯金がある。船を出るときにバンダナから渡されたものだ。名前はここのベリーとかいう通貨の価値はよく分からないが、結構な重さがあるのでこれを全て出せば足りるのではないかと思っている。いや、金については足りなくとも働いて稼げば良いのだ。問題はその先にある。
名前はどこかで例の島には必ず何かがあるはずだと信じていた。それは何かの伝説であったり、祠であったり、ようは超常的なものだ。人智の及ばない何かの力がそこには働いていると思ったのだ。しかし、漁師たちの話を聞く限りそんなものはどこにも存在しない。いよいよ最悪の不安が現実のものとなりつつあった。もし、万が一例の島に何もなかったとしたら、名前は一体どうすれば良いのだろう。手がかりは途絶え、この世界で生きていく術も持たない自分は。一体。
名前は足を止めて浜辺に立ち尽くす。固く瞳を閉じて表情を歪めたが、涙が零れることはなかった。波の音だけが聞こえる。こうすれば世界は何も変わりはしなかった。自分はただ海岸にいるだけ。ここは日本海側だろうか?太平洋側?沖縄の海なんかもいいかもしれない。瞳を開けたら、電車に乗って家に帰るのだ。交通費はなくとも、いざとなったら交番に駆け込めば良い。そうだったら、どれほどいいだろう。柔らかく瞼を開けた。視界に映るのはテレビでしか見たことがないような青い海と、鮮やかな快晴だ。悪い夢のような、美しすぎる景色だった。この世のものは、美しすぎる。深海も青空も、動物も、人も。
人。トラファルガー・ロー。自分を閉じ込めようとした海賊。
不意に脳裏に彼の姿が浮かんだ。トラファルガー・ローはどうしてあんなにも自分に執着したのだろうか。もしかしたら以前の"名前"とトラファルガー・ローの間には、他のクルーたちの言い分とはまた違った関係性があったのかもしれない。今となっては知りようもないことだ。でも、もしかしたら。
「名前!!」
名前を呼ばれておもむろに声のした方を振り返る。すごい剣幕でこちらに駆け寄ってきた彼らを見て名前は眩しそうに目を潜めた。彼と名前は新たに関係性を作るべきなのかもしれない。名前がこの世で頼ることができるのは…彼しかいない、のだから。
眩い世界が追ってくる