俗人の白日夢
まず目を覚ました俺を襲ったのは激しい頭痛と吐き気だった。完全に飲み過ぎた。こんな風になったのは酷く久し振りだ。不覚。

フラフラする身体をゆっくりと起こしながら昨日のことを思い出そうとする。すると真近で「名前!」と俺を呼ぶ声が上がった。頭に響く声に顔をしかめながらそちらを見ると情けなく眉を下げたシャチが俺を見てホッと息をついた。シャチの顔を見た途端俺は昨夜のことを思い出す。そうだ、俺は。


「死、ん…?は?あ?」


最後に認識したのは体に走った強い衝撃と、反転した視界の端で俺のものと思わしき身体が無残に細切れになった姿だった。一瞬の出来事で全然よく分からなかったが、俺は死んだんじゃないのか?あれは夢か?じゃあ一体何処からが夢だったんだ?今は?これは?ずっと夢を見ているのか?もしかしたら、今も。

混乱して自分の姿を見下ろしたまま固まった俺に、シャチが水差しから注いだ水を俺に差し出す。そして「死んでねぇよ。キャプテンが俺たちを殺すわけないだろ」と呆れたように俺を見つめた。


「キャプテンの能力だよ。オペオペの実。っていうかそんなことより名前、本気なのかよ!船を降りるって!」


シャチの言葉にトラファルガー・ローが現れたあたりのことが鮮明に頭に浮かんでくる。俺はシャチから水を受け取りながら「ああ」と呟いた。


「本気だよ。あの場で言うつもりはなかったんだが…でもずっと考えていた。俺じゃここでは生きていけない」


酔った勢いで洗いざらい吐いてしまった後なのだから、もう取り繕ったりする必要はなかった。俺の言葉にシャチは「そんな…」と小さく呟く。少し罪悪感を感じたが、撤回はしなかった。俺が船を降りる決意は固いのだ。
シャチから受け取った水に静かに口をつける。冷えているとは言い難い水は、それでも幾分か気分を良くしてくれた。


「…でも、キャプテンが許さねぇよ。名前。船から降りるなんて」


シャチの言葉にトラファルガー・ローに殺されかけたことを思い出す。いくら酔っていたとはいえ、あれは理不尽にすぎる。何故切り刻まれたのか俺には理解ができなかった。


「…トラファルガー・ローは一体なんなんだ…!まさか、降ろさないなんて気じゃないだろうな…」

「あー…その、まさか」

「…は?」


顔面が蒼白に染まる。今、シャチは何て言った?なんて…なんて?


「なっ、嘘だろ…?!降ろさない?なんで…?!俺を?」


最後はほとんど悲鳴だった。ふざけるな!船長だかなんだか知らないが乗船は本人の意思によるものだろう?どんなブラックなんだ!こんな理不尽があってたまるか!帰れない?冗談じゃない!

慌てた俺は部屋を出ようと扉へ駆け寄る。内鍵を外して外へ出ようとするが戸が開くことはなかった。外側から錠がかけられている。閉じ込められたのだ。


「シャチ!出られない!どうして錠がかかってるんだ!」


ソファーに座り込んだシャチに詰め寄ると彼は気まずそうにサングラスの奥の瞳を逸らしながら「キャプテンの命令なんだ」と答えた。トラファルガー・ロー!何を考えてるんだ?!最悪だ!

船を降りられないかもしれない。最低なシチュエーションが脳裏をよぎる。小さな希望が手のひらをすり抜けていく気配がした。俺と元の名前とやらが入れ替わった地点である島へ行くには船がいる。場所も確かではない。だから、これ以上離れてしまっては困るのだ。大体、この船から降りられなくては、根本的にどうしようもない。二日酔いも一気に覚めた。焦燥と、絶望が背後に忍び寄る。


「何故トラファルガー・ローは俺を?この船は一度乗ったら降りられないのか?抜け道は?どうしたら…!シャチ!トラファルガー・ローはどこだ!」


シャチに詰め寄ってガクガクと肩を揺さぶる。「俺にだってわかんねぇよ!」とシャチが悲鳴のように叫んだ。有り得ない。冗談だろう?


そのとき、ガシャンという重い音がして部屋の扉が開いた。俺は勢いよく振り返る。するとそこには渦中の人物であるトラファルガー・ローが涼しい顔をして佇んでいた。


「トラファルガー・ロー!」


俺は飛びかからんばかりの勢いで奴に詰め寄る。そして鋭い目つきでその真っ黒な瞳を睨みつけた。


「何を考えているんだ?今すぐここから出せ!」

「俺に命令するな。お前は、ここに居るんだ。一体何が不満なんだ?」

「何もかもだ!この状況、世界、すべて!」

「どうして欲しいのかを言え。全て叶えてやる」

「…ッ、あんたは何も分かっていない!」


俺がそう叫ぶとトラファルガー・ローは不愉快そうに顔を歪めた。


「ああ、そうだ。お前のことは何もわからねぇ…!だから、こうしておかねぇといけねぇんだ」

「トラファルガー・ロー…あんた何言って…」

「望むもんは全て与えてやる!だから、お前はここに居るんだよ!」


そう叫んだトラファルガー・ローが俺の後ろのシャチを一瞥して「交代だ、出ろ!バンダナは外で見張ってろ!」と後ろに居るクルーにも指示を飛ばす。俺は激昂してトラファルガー・ローに掴みかかった。


「あんたと俺じゃ生きてる世界が違う!」


激しい怒りを宿した瞳が俺を見つめる。


「ROOM!」


トラファルガー・ローがそう叫んで手にしていた刀が煌めいた次の瞬間、突然支えを失った身体がその場に崩れ落ちる。驚愕して足元を見下ろすと、両断された足が視界に飛び込んてきて一気に血の気が引いた。


「あ…?し、が」


血も痛みもない、あまりにも非現実的な光景に意識が遠のく。暗転した視界に最後に写ったのは俺を見下ろす真っ黒な瞳だった。



夢から覚めることは許されない


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