俗人の白日夢

「俺の居場所はここじゃない!」


食堂に足を踏み入れた途端耳に入ってきた言葉にローが抱いたのは、明確な怒りだった。何やら船の中が騒がしく、様子を見にいった折のことである。そしてそれを言い放った人物を認識した時、怒りは静かな激昂へ変わる。その時の行動を表すとしたら反射か、衝動か。何にせよ情動的なものだ。すぐさまROOMを展開して名前をバラバラに施術した。あそこまで細分化したのは、ひとえに怒りのせいである。切り離された生首を握ったとき、ローは唐突に、ここ最近ずっと抱えていた得体のしれない感情の答えを理解した。怒りを抱いたのはロー自身の中で名前を手放すという選択肢が存在しなかったからだ。ローは決して愚かではなかった。だからその情動を抱いたとき、それが一瞬にして何なのか理解した。そう、これは有り体にいえば、恋情と呼ばれる感情だ。それをあっさりと認めてしまう程度には、ローは名前に執心していた。

そして、そう自覚してからのローの行動は早い。じわじわと懐柔していくような方法はもう取れない。それは今まではっきりと自身の抱いた好意を自覚しなかったローの落ち度である。今まで好意を受ける側であったがゆえの怠惰だ。反省するべきだった。これを手に入れる為には、今までと同じでは足りないのだ。そして名前が自分には分からない"どこか"へ帰りたがっている限り、手段など選んでいる余裕はない。ともかくはこの不安定な男を繋ぎ止めておかなくてはならなかった。決して自分から離れていかないように。強固に。


その一番手っ取り早い方法は監禁である。何処かへ行くというのなら船に閉じ込めてしまえば良い。明確で、しかも簡便な手段である。

ローは自室のソファーにゆったりと腰を下ろして手にした名前の首を弄ぶ。気絶して瞳を閉じた名前は、一見すれば変貌する以前と何も変わっていないように見えた。しかし、お喋りだったその口がローに愛を吐くことはない。あんなにも鬱陶しかった睦言を、今は聞きたがっている自分が滑稽で興味深かった。

名前はどんな風に好きだというのだろう。あの遠くばかり見つめている男がローのことだけを真っ直ぐに見つめて愛を告げる様を想像すると、それだけでローは気分が良くなる。クラクラするような光景だった。ああ、やはり自分はこの男が好きなのだ。面倒な、けれどこの上も無く捨てがたい感情だった。


唇が触れそうなくらい真近で名前の顔を見ていると、控えめなノックの音が響いて切り離された名前の身体のパーツを抱えたシャチがビクビクしながら入ってくる。体をテーブルに置かせて、先程の状態に至ったことの次第を問い詰めるとシャチはサングラスの奥の瞳を困ったように泳がせながら口を開いた。


「名前が、なんか落ち込んでるみたいだったから元気付けてやろうと思って酒盛りしたんです。もうすぐ島に着くから補給もできると思って…そのー、結構盛大に。あんな賑やかになるのは予想外でしたが…。そんで、酔っ払った名前に、お前の話をしてくれって頼んで…。名前がガー!ってなったのはそれからです」

「(それを言ったのか、あいつに)」


ローは手の中の生首を握る力を強くする。自分が名前を泣かせたのと同じ言葉だった。あいつにとって過去とは何なのだろう。丸ごと人格が入れ替わったのでも、記憶喪失でも、元の名前とは全くの別人でも、そんなことはどうでもいい。ただ、今の名前が確固たればいいのだ。今のあいつが、どこにも行きさえしなければ。
俺もクルー達も名前のことを受け入れているのに、唯一あいつ自身がそれを否定し続けている。厄介な男だ。理解し難く、得難い。


「…で、あいつは答えたのか?」


特に期待は持たずに軽く問い掛ける。するとシャチは何でもないことのように「はい」と返事を返した。


「何言ってんのかは全然分かりませんでしたけど、俺は普通の人間で〜…どっかで働いてたみたいなこといってたかな…。あとワンピースがどうのとか」

「…ぁあ?」


あいつ、話したのか?シャチには?俺の前では話さなかったくせに?

激しい苛立ちが胸中から湧き上がってくる。明らかに急降下したローの機嫌にシャチは慌てて言葉を付け加えた。


「ヒッ!いや、あのときはあいつ酔って前後不覚でしたし!あ!そもそもは名前がキャプテンのこと知りたいって言い出したんです!」

「名前が、俺のことを?」

「ハイ!もっとキャプテンのことが知りたいんだって言ってました!名前の奴!」


シャチの言葉にほんの少しだけ気分が浮上するが、それでも腹の底から湧いた怒りは収まらない。取り繕うシャチには返事を返さずローは立ち上がった。手にしていた名前の首をシャチに放り投げて船内連絡用の伝音管に手をかける。


「ベポを出せ。次の島まではあとどれくらいかかる」


そう問い掛けると連絡番の「アイアイ!」という返事から暫くして、応答したベポが「早ければ明日のお昼にはもう着くよ!」と返答した。ローは内心で舌打ちをする。
補給をしなければ船は持たない。島への上陸は必要だが名前を逃がすわけにはいかないのだ。上陸は普段以上に速やかに、そして静かに行わなくてはならない。名前に気付かれないように。


ローは伝音管を手放して振り返る。名前の生首を抱えて途方にくれているシャチを見て心底不可解に思った。
何故、名前は船を降りようとなどするのだろう。ここに居れば名声も財宝もうまい飯も自由も、何もかもが手に入るというのに。それでも去りたがるなんて、意味が分からない。そんなに名前の故郷は素晴らしい場所なのだろうか。それとも安全な生活でも求めているのか?ローには理解出来ない。


「名前の身体をつないでおけ。この部屋から決して出すな」


瞳を閉じた名前の顔を一瞥してそうシャチに命じた。「アイアイ!」と返事をしたシャチを残して船長室を後にする。いささか乱暴にすぎる気もしたが仕方ない。相手はいつどうなるかも分からない得体のしれない男なのだ。名前がせめてローの予測の範疇に収まる普通の人間だったなら、もう少し優しくできただろうに。



その不確かを諦められない
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