俗人の白日夢
トラファルガー・ローはふわりとした意識の浮上を感じてゆっくりと目を開いた。見慣れた天井が目に入って体を起こせば、すでに時刻はクルーの起き出す時間を遠に過ぎている。くるりと視線をソファーの上に移すと、そこには未だすやすやと安らかな寝息を立てる人影が転がっていた。普段不規則な時間に起きているローが言うのもなんだが、船長より起床が遅いとは何事だろうか。

ローはゆらりとベッドから起き上がってソファーの方に歩み寄る。顔を腕に埋めて眠る名前を覗き込んで、その頬に涙の痕がないことを確認した。安らかに眠る男は、当分起きる気配がなさそうである。昨夜のことを思い出しながらローは名前のことを見つめた。


ぼろりと突然零れ落ちた大きな涙の雫は、ローを動揺させるには充分な威力を孕んでいた。元々のところ、ローは企む男である。ローの謀のその先には必ず帰結すべき目標が存在している。すべての物事に予測と仮説を立てて行動するローだが、彼にしては、かの問い掛けはあまりにも衝迫的に過ぎる言葉だった。よもや"彼"が"名前"ではないなどと。


「(あまりに荒唐無稽か?)」


しかしローはそれだけでは片付けられない…一種の直感のようなものを感じていた。今の名前はあまりにも以前の彼とは違いすぎている。仕草も考え方も…何もかもが。事故により記憶を失ってしまった者がまるで別人のようになってしまう症例は確かに存在している。しかし、それに今の名前は当てはまらないような気がするのだ。これは医者としての観点からの推察ではない…ただのローの勘だ。確証となるものは一切存在しない。

けれど名前はペンギンやシャチ、他のクルー達のことは忘れても、ローのことだけは覚えていたのだ。それは確かにローが名前の中で特別だということなのではないのか。
ローには確証が持てない。ローのことだけ覚えていた名前は、それでもローのことを特別扱いするわけではなかった。むしろ、あいつの中で自分は興味のない部類に値するだろう。ローはそれが気に食わない。

正直に言うとローは以前の名前よりも今の名前に惹かれていた。前はただ鬱陶しいだけだったが、今はもっと彼のことが知りたいと思っている。名前は、そう、謎めいている。最初はその得体の知れなさが、自分の邪魔にならないかだけを考えていた。しかし今のローが抱いているのは、名前に対する純粋な興味だ。ローのことだけ記憶しているはずなのに、そのローのことはほっぽり出して何処かへ帰ろうとしていた目の前の男。お前は。


「俺の、クルーだろう?」


どのように形を変えたとしても名前はローのクルーなのだ。それはどんな状況になったとしても決して変わる事はない。
彼の涙の理由なんてローは知らない。名前が、話すつもりはないというのならそれもいいだろう。

名前は徐々に帰りたいと口にしなくなってきた。もう落ち着いたのだろう。船の様子にも慣れてきたようであったし、何も問題はありはしない。彼の居場所は、このハートの海賊団なのだから。



眠る心臓


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