俗人の白日夢
入浴っていうのは偉大だ。濡れた頭を清潔なタオルでガシガシと拭きながら名前はそんなことを思った。

泣き顔を引っさげて船長室の方からやってきた名前を最初に見つけたのはペンギンだった。ぎょっとした表情をして彼を呼び寄せるとタオルなど一式を渡して名前をシャワー室に放り込んだ。本来だったら水が貴重となる潜航中はシャワーすら最低限に控えるものだが、仕方が無い。大切な仲間が弱っているのだ。言われるがままにシャワーを浴びた名前は先程よりはスッキリとした顔をしてシャワー室から出てきた。

「さっぱりした。ありがとう」と言ってタオルを肩にかけた名前に、さっきはどうしたのかと聞くことはペンギンには出来なかった。ただでさえ記憶を失っているのだ。普通でいられる方がおかしいのだろう。仲間が元気を取り戻してくれさえすれば、ペンギンはそれで構わない。名前が記憶を失ってしまう前、彼と一番仲が良かったのはペンギンだった。だから分かる。友達がおかしくなって戸惑っているのは自分もなのだから、当人は尚更だろう。


「…ならよかった。じゃあ部屋に戻ろうぜ」


そう言って大部屋へ向かおうとしたペンギンに名前は僅かに眉を下げた。その様子にペンギンは疑問符を浮かべて足を止める。


「ありがとう、でも俺寝つき悪くて…トラファルガー・ローの所で厄介になってるんだ」


そう言った彼にペンギンは目を見開く。咄嗟にあり得ない、と思った。キャプテンが名前を部屋に入れるなんて!
こんな時、ペンギンは名前が実は記憶喪失になんかになってはいないのではないかと疑ってしまう。本当は趣向を変えてキャプテンにアタックしているだけなのではないかと。しかし目の前の名前は明らかに以前の名前とは違ってキャプテンに対して執心している様子でもないのだから、そこに生まれる齟齬に違和感を感じるしかない。あからさまにキャプテンに傾倒していた時よりもキャプテンに気に入られているなんて、なんだか本末転倒だ。

名前は「そういうことだから、すまない」と言うと踵を返して足早に船長室の方へ歩いて行った。その姿を見送ったペンギンは名前ではなくおかしな船長のことを思った。今朝から一体どうしたのだろう。名前がおかしくなって、キャプテンまで変になってしまったのだろうか。首を傾げてペンギンは廊下を後にした。



船長室へ戻った名前は、扉を開けて深く息をついた。
シャワーを浴びて落ち着いた頭で考えてみたら、これはチャンスだ。トラファルガー・ローが事態を把握してくれたら俺を…ひいては"名前"を元に戻そうと尽力してくれるかもしれない。さっきはつい感極まってボロっといってしまったが、改めて状況を説明しよう。

そう思い、急いでやってきてみたら当の本人は既に眠りについていた。マジかよ。

大きなベッドの上でスヤスヤと寝息を立てるトラファルガー・ローを見て名前はもう一度ため息を漏らした。
今朝早起きだったから…こんなに早く寝たのか…?まだ21時だぞ…?

そんなことを考えながらチラリと時計を見つめる。しかし眠ってしまったものは仕方ないので名前も大人しくソファーに寝転んだ。叩き起こしてここで眠れなくなるのはごめんである。シャワーも浴びてさっぱりした名前は暫くすると健やかな寝息を立て始める。その呼吸が安定した頃合いを見計らってソファーに背を向けていたローはごろりと寝返りを打った。そしてパチリと目を開けて眠る名前の姿を見つめる。


「……お前は」


小さく吐き出された呟きは誰にも拾われることなく、暗い室内に霧散した。



当惑の水


- ナノ -