俗人の白日夢
潜水が完了したその日の夜。クルーたちが軒並み眠りについたあとで、何と無く眠れなかったローはふと思い立って深海の様子が見える船底の部屋を訪れた。ランプを片手に部屋の戸を開けると既に部屋の中には灯りがあってローは軽く目を見開く。暗闇に映し出されたシルエットに視線を向けると、そこには昼間散々この部屋で海中の様子を見つめていた名前がぼんやりと真っ暗なドームの外を見つめていた。所在無さげなその様子はどこか息を潜める深海魚のようで、何か得体のしれない不気味さを持っている。

ーー得体がしれない。

それは正しく、今の名前を表している言葉だ。


「何してるんだ」


ローの言葉に、名前がゆっくりと振り返る。今始めてローの存在に気付いたような顔をして名前は小さくローの名前を呼んだ。クルーたちの呼ぶ"キャプテン"とは違うその呼び方が、今の彼には妙にしっくりきている。


「あー…、部屋がちょっと…眠れなくて」


言葉を濁すように逸らされた視線を追って、その淡い双眸を見つめる。名前が大部屋で寝ることを良しとしていないのはロー自身も気づいていた。何しろ、名前がよく寝室代わりとして使っている書庫はローのお気に入りなのである。夜中に本を取りにいって彼を踏みそうになることも少なくない。よくあんなところで眠れるものだ、とローは感心してしまう。

名前にしても書庫の居心地は決していいものだとはいえないが、あの大所帯を不安定な網の上で寝るのよりは幾分かマシだった。本当であったら柔らかいベッドで眠りたいのが常だが、生憎ながらそんな厚遇はいち乗組員に許されるものではないのは承知している。


深海の闇に沈む部屋の中に長い沈黙がおちた。煌々と部屋を照らすランプの灯りに反射してお互いの瞳が赤い炎を宿して揺れる。そういえば、こんな風に彼と二人きりで話すのは初めてかもしれない。そんなことをふと考えた。先に口を開いたのはローだった。


「なら、俺の部屋に来るか?」


それはロー自身も、あまり考えずに口をついて出た言葉だった。名前は驚いた顔をして目を見開く。どうやら予想外の台詞だったようだ。瞠目する名前を見てローは不思議な心地になる。こうなってからの名前の、こんな表情は初めて見た。ベポに向かって笑っていたところは見かけたことがあったが、なにか、こう。今までの名前とは違う。この感覚はなんだろうか。

名前は暫く逡巡したあとで「あんたがいいなら、そうしてくれると嬉しい」と遠慮がちに呟いた。ローはそれにひとつ頷いて「ついて来い」と部屋を出る。ランプを持った名前がそのあとを追って行った。潜航中は操舵室のソナーと機器の管理で走行するので、通路に二人以外の人影はない。ローは部屋に向かう途中で、そういえば名前が、元は船長に愛を吐くような馬鹿だったことを思い出した。なんだか、もう遠い昔のことだったような気さえする。そんなことを考えながら辿り着いた船長室の戸を開けた。名前はローの後ろでおとなしくしている。一抹の後悔がローを襲ったが、もはや後の祭りである。まさか、本当について来るとは思わなかった。これで部屋に入れた途端記憶を取り戻したら、すぐにバラバラにして叩き出してやる。


警戒しながら名前を室内へ招き入れる。中に入ってきた名前はくるくると辺りを見渡した。ローの船長室は広いうえに物が多い。大きなベッドに広いテーブル、三人掛けのソファー、壁を取り囲む本棚にはたくさんの医学書や専門書が並んでいる。その他の机や椅子の上にも本やわけの分からない医療器具、海図やエターナルポースが所狭しと並んでいた。名前は視線を止めてソファーを指差すとローを見つめて口を開いた。


「ソファーを…借りても構わないだろうか?」

「…ああ」


ローの返事に名前は微かだが、嬉しそうに口元を緩める。


「ありがとう。出来るだけ邪魔にならないように心掛けるから、おいてもらえると有難い」


そう言って遠慮がちに奥へ歩いて行くと、ごろりとソファーに横になった。あんまりにもあっさりとしたそれにどこか拍子抜けする。


「邪魔になったら蹴飛ばして退かしてくれて構わないから」


そう言ってこちらに背を向けた名前は完全に寝る体勢だ。ローは何だか気後れしてしまう。すっかり人の変わってしまったクルーを見てローは途方にくれた。扱い方がよく分からないのだ。何だかこちらが振り回されているような気さえする。今思えば、以前の名前は単純だった。全くもって鬱陶しい男ではあったが、片手間であしらっていればこと足りたのだ。しかしそれが今となっては、こちらが名前を気にしてばかりいる。こいつ自身は恐らく何の感心も抱いていないというのに。これではまるでーー。


「(…まるで)」


逆転、してしまったようでは、ないか。



わたしは逆転する


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