俗人の白日夢
その日の船内はどこか慌ただしかった。ざわざわと通路を行き交うクルー達を見つめて名前は首を傾げる。今日は当番の無い日である。例によって例の如く書庫で夜を明かした名前には何があったのかさっぱり分からない。


「名前!」


ぼんやりと通路に突っ立っていると後ろから名前を呼ばれて振り返る。そこには何やら忙しそうな様子のペンギンが佇んでいた。


「お前またどっかいってたのかよ。今日は潜水するから、みんなその手伝いだっての。行くぞ!」

「…潜水?この船は潜水艦だったのか?」


確かに何と無く自分の知っている…所謂"船"とは違う様な気はしていた。船首らしき物はないし見張り台も存在しない。でもまあ漫画の世界なのだからと深くは考えていなかったが…。なるほど、これは沈むのか。


「…そうだよ!ハートの海賊団といったら巷じゃ潜水艇だって有名だ」

「へぇ…。有名なのか」

「キャプテンは超大型ルーキーだからな」

「ふぅん…」


気の無い返事を返しながら、足早に通路を進むペンギンについて行くと今まで入ったことのない部屋の前についた。中に入ると数人のクルー達が何やらわけの分からない計器と睨めっこしている。何をすればいいか分からなくてペンギンを見つめると、彼は大きなバルブを指した。


「名前はトリムの操作な。シャチが右舷側の調整やってるから、指示に合わせてバルブを回せ!」


わけも分からないままにバルブの方へ誘われて赤い取っ手を握る。「じゃあ俺はバラストの方いってくるから!」と言い残したペンギンは颯爽と部屋を去っていった。おい、本気か。全然分からんぞ。

バルブを握って途方に暮れていると何やら計器を弄っていたバンダナをしたクルー(名前は覚えていない)が顔を上げてこちらを見た。


「開口しろォ!」


俺か!

わけも分からないままとりあえず目の前のバルブを回す。物凄く硬かったがなんとか開けて息をつくと暫くたったあとで「ストップ!」と叫ばれた。おいおい締めるのもか。慌ててさっきとは逆の方向にバルブを回すが先程より明らかに硬く、重くなっている。誰か手伝いを、と思った瞬間、呼ぶ前に周りのクルー達が手を貸してくれた。そのまま無事にバルブを回してタンクの口を締める。

「ありがとう」と手伝だってくれたクルーにいうと「一人じゃ絶対無理だ」と笑われた。どうやら本来から一人でやる物ではないようだ。


「あ、ごめん。もうちょっと海水入れて」


バンダナが計器を見つめてそう呟く。「えーーー!」とバルブの周囲にいたクルーたちから文句が飛んだ。潜水作業はどうやら一筋縄ではいかないようだ。





漸く作業が終わってクタクタになりながら操作室をあとにする。

今、この船は海中を進んでいるのだろう。艦内からではいまいち実感が湧かないが、いつもはしない機械音が響いているので恐らくそうなのだろう。まさか潜水艦だったとはなァ。この壁の外は海水かもしれないのか、とどこか感慨深い気持ちになりながら壁に手を触れると「名前!」と名前を呼ばれて振り返る。そこにはベポを連れたシャチとペンギンが居て、こちらに向かって軽く手を振った。


「お疲れさん!…初めての潜水作業はどうだった?」

「…疲れた。もうやりたくないな」

「そんなこと言うなよ。バンダナの奴から聞いたぞ。よく動いてたみたいじゃんか」


バンダナ…どうやら本当にそれがあだ名なのか。「そんなことない」と呟きながら息をつくとニンマリと笑ったシャチが「そんな名前にいいものを見せてやろう!」と大袈裟に声を上げた。


「いいもの?」


俺は首を傾げる。「おいでよ!」とベポに手を引かれて連れていかれたのは、船の船頭にあたる部分だった。とはいっても船内の階下なので何が見えるというわけでもないが。


「こっちだ、こっち!」


シャチに導かれて今まで足を踏み入れたことのなかった船底の部屋に入る。中にはトラファルガー・ローがおり、こちらを見るとクイ、と顎で部屋の奥を指した。それに従って徐に顔を上げる。そこで目に飛び込んできた光景に、俺は目を見開いた。


それは今までテレビの中でしか見たことのなかった、本当の海の中だった。

巨大なドーム型をした透明な窓の外には、マリンブルーの美しい水の中を鮮やかな色をした魚たちが踊るように泳いでいる。その中に、俺の知っている魚は一匹もいない。艶やかな鱗を持つ見たこともない魚や小さな体をした小魚が大きな群れとなって渦のように通り過ぎて行く様子はまさに圧巻で、俺は外の景色に釘付けになる。


「綺麗だろ。水深の深いところでは光が届かないから、潜水の時しか見れないんだ」


そう言ってペンギンが誇らしげに笑う。それに感嘆の息を漏らして「ああ」と呟いた。惹き寄せられるように近づいていって大きく外に膨らんだ窓に触れる。当然のように厚い層の透明なアクリルに阻まれてそれ以上は進まない。一心に海中を見つめる俺を見てトラファルガー・ローが不意に口を開いた。


「気に入ったのか?」


それにひとつ頷いて返事を返す。


「とても綺麗だ…。でも」


少しだけ、恐ろしい。

美しいそれはあまりにも、俺の日常とかけ離れている。心中で呟いた言葉は誰にも届くことなく名前の心の底に沈んでいった。



沈殿していく深海


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